1:サモス植民
サモスは、ミーレートスの近くに浮かぶエーゲ海の島です。その島にピタゴリオという町がありますが、古代ではここが島の名前と同じサモスという名前の町でした。なぜ現代ではその町をピタゴリオになっているのかと言いますと、数学のピタゴラスの定理で有名なピュータゴラース(数学者、哲学者)が・・・・
2:ミーレートスとの抗争
サモスが建設されたのち、サモスはイオーニア12市の同盟に参加しました。この同盟にはサモスのほかに、ミーレートス、ミュウス、プリエーネー、エペソス、コロポーン、レベドス、テオース、クラゾメナイ、ポーカイア、キオス、エリュトライが参加していました。この12市同盟は、エペソスの建設者であった・・・・
3:ジブラルタル海峡を越えて
この頃サモスに、エジプトとの交易で財を成したコライオスという船主がいました。その人がいつものようにサモスからエジプトに航海している時に、船が東風に流されてリビア沿岸の近くにあるプラテア島という島に漂着しました。そこは、ほぼ無人島で、クレータ島出身のギリシア人がひとりだけ・・・・
4:ヘーラー神殿
サモスで有名だったのは、ギリシア神話で神々の王ゼウスの正妻とされるヘーラーに捧げられた巨大な神殿でした。この神殿はサモスの町の西6kmのところにありました。残念なことに今では上の画像のように柱が1本残っているだけです。日本語のウィキペディアによれば、この神殿は4回に渡って建設された・・・・
5:女神ヘーラーをめぐって
女神ヘーラーが本来、どのような神格であったのかについて、高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」が、示唆に富む説明をしています。古代ギリシア人の世界――ヘラスと彼らは呼んでいました――をめぐった者なら誰も、女神ヘーラーに捧げられた壮麗な神殿の数々をながめて・・・・
6:サルディスの陥落
では、話をサモスの歴史と伝説に戻します。レーラントス戦争の終結の後、キンメリア人が馬に乗って東から小アジアに進入し、エペソスなどを襲った時に、海を隔てたサモスにはキンメリア人が襲ってくることはありませんでした。彼らは船に乗る習慣がなかったのです。このキンメリア人を・・・・
7:ポリュクラテース(1)
(おそらく)BC 532年、ポリュクラテース、パンタグノス、シュロソーンの3兄弟が、ヘーラーの神域において祭典を行っているサモス人の主だった者たちを殺し、アクロポリスを占拠して政権を奪い取る、という事件がありました。当初3兄弟は島を3分割して3名がそれぞれの区域を統治したのですが・・・・
8:ポリュクラテース(2)
さてギリシアで一番強いという評判のスパルタは、サモス人たちの要請を受け入れて(というのもこのサモス人たちはポリュクラテースによって戦場の捨て石にされることになっていたためにポリュクラテースに反旗を翻したからですが)海路はるばるサモスまで攻めてきました。・・・・
9:ポリュクラテース(3)
幸運に恵まれ、栄華を享受していたポリュクラデースでしたが、アポローン祭典の挙行ののち、まもなくあるペルシア人によって殺されてしまったのでした。どのように殺されたのか、ヘーロドトスは マグネシアへ着いたポリュクラテスは横死を遂げることになるが、それは彼の人物にもその高邁な・・・・
10:ピュータゴラース
ポリュクラテース亡きあとに話を進める前に、彼の同時代人の話をご紹介したいと思います。ポリュクラテースが政権を奪取してそれほどたたない頃、サモスを去ろうとする人がいました。その人は今でも数学における「ピタゴラスの定理」で知られるピュータゴラースでした。この人は哲学者でもあり・・・・
11:ピュータゴラースと女神ヘーラー
高野義郎著「古代ギリシアの旅:創造の源をたずねて」で著者は、ピュータゴラースが居を定めた3つの都市の全てに女神ヘーラーの大規模な神殿があった、と指摘しています。その3つの都市とは、ピュータゴラースが生まれた都市であるサモスと、後になって移住した南イタリアのクロトーン・・・・
12:マイアンドリオス
さて、話をポリュクラテースが謀殺された時点に戻します。ポリュクラテースを謀殺したオロイテスはその後サモス島を攻めたかといいますと、攻めてはおりません。それはなぜかといいますと、ちょうどこの頃、ペルシア王カンビュセースが遠征中のエジプトで急死したという、ペルシア王国にとっての・・・・
13:シュロソーン
シュロソーンはポリュクラテースの弟でした。彼は兄ポリュクラテースがサモスの政権を奪取しようとした時にもう一人の兄とともに協力したのでした。しかし、その後まもなくポリュクラテースによって追放されてしまいます。追放されたのはましな方で、もう一人の兄であるパンタグノスはポリュクラテース・・・・
14:ペルシア軍侵攻
ペルシアの将軍オタネスは、シュロソーンをサモスの支配者に据えるために艦隊を率いてサモス島に侵攻しました。さてペルシア軍がシュロソンの復帰を目指してサモスに到着すると、これに刃向う者は一人もなく、マイアンドリオス自身もその一党も協定を結べば島から退去する用意があると告げた。・・・・
15:スキュティア遠征への従軍
BC513年のこと、ペルシア王ダーレイオスはスキュティア(現在のウクライナ南部)へ攻め込みました。サモスも海軍の提供を要求され、僭主アイアケス自身がサモスの海軍を率いて従軍しました。バビロンの占領後、ダレイオスは自らスキュタイ人遠征に向った。今やアジアは人口も豊かに、国庫に集まる収入は・・・・
16:イオーニアの反乱
BC 498年、サモスとは目と鼻の先にある、大陸側の都市ミーレートスがペルシアに対して反乱を起しました。反乱の首謀者はミーレートスの僭主アリスタゴラスで、彼は本心はともかくミーレートスに民主政を宣言し、他の都市に対しても、ペルシアに協力する僭主を追放して民主政を敷くように呼びかけました・・・・
17:ラデーの海戦
「イオーニアの反乱」の最後の決戦となるラデーの海戦が始まりました。さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。両艦隊はやがて近接して交戦した(中略)。伝えられるところでは、サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケスと打ち合せておいたとおり・・・・
18:ザンクレー奪取
アイアケスが僭主に復帰したのちのサモスの状況については、よく分かりません。ただ、アイアケスがサモスにやってくる前に亡命した人々がいたことをヘーロドトスは伝えています。一方サモスでは、富裕な階級のものたちは、サモス軍の指揮官たちがペルシア軍に対してとった行動にあきたらず、海戦直後に・・・・
19:ペルシア戦争
イオーニアの反乱は鎮圧されましたが、この反乱にアテーナイと、エウボイア島のエレトリアは援軍を出していました。ペルシア王ダーレイオスは、そのことを口実に、アテーナイとエレトリアを征服するための軍を派遣することにしました。これが1回目のペルシア戦争です。新たに任命された司令官とはメディア出身のダティスと・・・・
20:ミュカレーの戦い
このにらみ合いの均衡をやぶったのはサモスでした。というのは、駐留するペルシア軍や新たに僭主になったテオメストルの目を盗んで、ランボン、アテナゴラス、ヘゲシストラトスの3名のサモス人がデーロス島のギリシア連合艦隊のところに向かったからです。彼らはギリシア連合艦隊の指揮官たちに、・・・・