神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(1):サモス植民



 サモスは、ミーレートスの近くに浮かぶエーゲ海の島です。その島にピタゴリオという町がありますが、古代ではここが島の名前と同じサモスという名前の町でした。なぜ現代ではその町をピタゴリオになっているのかと言いますと、数学のピタゴラスの定理で有名なピュータゴラース(数学者、哲学者)がこの町の出身だったからで、ピュータゴラースを記念してこの名前に変えたのでした。この町は哲学者エピクロスの生まれた町でもあります。


 古典時代におけるこの町の主神は神々の王ゼウスのお妃であるヘーラーで、かつてここにはヘーラーに捧げられた巨大な神殿がありました。しかし残念ながら今では、一本の柱が残っているだけです。一説には、女神ヘーラーはここサモス島で生まれたそうです。



女神ヘーラー


古典時代には、サモスはワインの産地としても、海軍国としても有名でした。ペルシア戦争より以前の話ですが、この島にはポリュクラテースという強力な海軍を組織した君主がいたのです。

われわれの知る限りではポリュクラテスが、海上制覇を企てた最初のギリシア人であった(中略)。いわゆる人間の世代に入ってからでは、イオニアおよび諸島嶼を支配せんものと、満々たる野望を抱いていたポリュクラテスをもってその嚆矢とするのである。


ヘロドトス「歴史」巻3 122 より

では、サモスの神話と伝説、歴史をたどっていきます。

 サモスの名前は女神サミアーに基づくものだそうで、サミアーはマイアンドロスの娘ということになっています。マイアンドロスというのは現代のトルコを東から西へ流れて地中海に注ぐ川の名前で、この川はかつてのミーレートスの町の近くを通ります。この川の神マイアンドロスの娘がサミアーです。ここからサモスと、その東の小アジアの西岸、古代にカーリアと呼ばれた地方との関係の深さがぼんやりと浮かんできます。


 サモスはエピダウロスからの植民であると伝えられています。率いてきたのはエピダウロス王の息子プロクレースです。エピダウロスの王ピテュレウスは、理由はよく分からないのですが、アルゴスからの亡命者であるデーイポンテースにエピダウロスを譲り、自分は住民とともにアテーナイに移住しました。その時に息子のプロクレースは一部の住民を率いてサモス島に植民したのでした。デーイポンテースがエピダウロスに亡命するまでの経緯は「アイギーナ(3):アイギーナ植民」をご参照下さい。

 プロクレースがサモスに植民するまでのサモスにはどんな民族が住んでいたのでしょうか? これに関して情報を与えてくれる物語があります。それはヘーラクレースの物語に関係しています。


 ヘーラクレースに12の功業を課したミュケーナイ王エウリュステウスにはアドメーテーという娘がいました。彼女はアルゴスにあるヘーラー女神の神殿を守っておりました。やがてエウリュステウスがヘーラクレースの子供たちによって殺されると、アドメーテーはヘーラーの神像を持ってサモスに遁れました。サモスにはその頃すでにヘーラー女神の古い神殿があったといいます。アドメーテーはそこにアルゴスから携えてきた神像を安置しました。この神殿はレレクス人とニンフたちが建てたと伝えられています。アルゴス人たちは像の行方の探索をテュレーニア人(すなわちエトルリア人)の海賊に依頼しました。海賊たちはサモスに神像があることを突き止め、その神像を盗み出したのですが、不思議なことに船が動かなくなってしまったのでした。それで海賊たちは、神像を海岸に放置して立ち去りました。一方、神像を探してさまよっていたアドメーテーは、この海岸で神像を見付けることが出来ました。アドメーテーは神像を清めて、ふたたび神殿に安置しました。これを記念して毎年サモスでは、神像を海岸にもち出して、また安置し直す、という儀式を行うことになった、とこの物語は伝えます。


 神話の系譜を信じるならば、このアドメーテーの物語は、プロクレースがサモスに植民するよりずっと昔のことになります。その時サモスにはヘーラーの古い神殿があり、それはレレクス人によって建てられた、とこの物語は述べています。レレクス人というのはレレゲス人とも呼ばれ、カーリア人とよく区別がつかない民族です。大ざっぱに言えばカーリア系の人々がサモスに住んでいたようです。


 そこへプロクレースたちが植民にやってきたのですから、何がしかの軋轢、あるいは戦いがあったことと思います。しかし残念ながらそのような話を私は見付けることが出来ませんでした。