神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テオース(6):イオーニアの反乱

アナクレオーンが故郷のテオースに帰国した頃、テオースはおそらくギリシア人の僭主の支配下にあったはずです。この頃のペルシアはイオーニアの町々の僭主を支援して、彼らによってイオーニアを間接統治していたからです。イオーニアの僭主の中の一人、ミーレートスアリスタゴラスはBC 499年にペルシアに対して反乱します。アリスタゴラスは、自分も僭主であるのにもかかわらず、今回の反乱を各都市の僭主打倒の動きにリンクさせ、全イオニア、さらにはその周辺までが反乱に参加するように画策しました。

アリスタルコスはまず、ミレトス人が進んで自分の謀反に加担してくるように、本心はとも角名目上は、ミレトス独裁制を廃して万民同権の民主制を敷くこととしたが、つづいてイオニアの他の地区にも同様の政策を実行しようとし、幾人かの独裁者を追放したり、また彼と共にナクソス遠征に参加した船団から捕えてきた独裁者たちを、町々に恩を売るため、それぞれの出身地である町へ引き渡したりなどしたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、37 から

テオースもこの反乱に加わります。反乱は6年間続きますが徐々に追いつめられ、最後にはミーレートスの沖合のラデー島付近で海戦の決戦が行われることになりました。

ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。


ヘロドトス著「歴史」巻6、7 から

こうしてラデー島に集結した各都市国家の軍船の数をヘーロドトスが伝えています。ここからテオースの国力を推測することが出来そうです。


キオスが100隻、ミーレートスが80隻、サモスが60隻、出しており、これだけでイオーニア勢の8割強になります。テオースは4番目で17隻を出していました。イオーニア12都市のうち、エペソスクラゾメナイ、レベドス、コロポーンはこの時点ですでにペルシア側に降伏しています。これらの都市がテオースの近くであることから、テオースが何とか持ちこたえている様子が伺えます。


そしてペルシア配下のフェニキア海軍とイオーニアの海軍との間に海戦が始まりました。

さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。両艦隊はやがて近接して交戦したが、それ以後この海戦においてイオニア軍のどの部隊が卑怯な振る舞いをし、どの部隊が勇敢に戦ったのか、正確に記すことが私にはできない。各部隊が互いに罪のなすり合いをしているからである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から

ヘーロドトスは「正確に記すことが出来ない」と言いながら、そのあとでサモス部隊が戦線を離脱して帰国したこと、キオス部隊とポーカイア部隊が奮戦したことを記しています。テオースについてはどうだったかの記述はありません。ともかくラデーの海戦はペルシア側の勝利に終わり、反乱の大勢は決しました。ペルシアの艦隊はミーレートス付近で越冬し、翌年の春にイオーニアの諸都市を易々と占領していったのでした。ペルシア側の報復は苛烈なものでした。

この時ペルシアの諸将は、ペルシア軍に反抗の陣を構えたイオニア人に向って、彼らが放った威嚇をその言葉どおり実行したのであった。というのは、彼らはイオニア諸市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し男子の性を奪い、また器量のすぐれた娘を親許からひき離して(ペルシアの)大王の宮廷へ送った。右のほか、さらに各都市に火を放ち聖域もろともに焼き払ったのである。かくしてイオニアは三たび隷属の憂目に遭ったのであるが、この三回のうち最初はリュディア人によるものであり、あとの二回はペルシア人によるものである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、32 から