神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(15):スキュティア遠征への従軍

 BC513年のこと、ペルシア王ダーレイオスはスキュティア(現在のウクライナ南部)へ攻め込みました。サモスも海軍の提供を要求され、僭主アイアケス自身がサモスの海軍を率いて従軍しました。

バビロンの占領後、ダレイオスは自らスキュタイ人遠征に向った。今やアジアは人口も豊かに、国庫に集まる収入は莫大な額に上ったので、ダレイオスはスキュタイ人に報復を思い立ったのである。それというのも先に侵害したのはスキュタイの方で、彼らはペルシア人の進攻以前にメディアに進入し、抵抗するメディア人を撃破したことがあったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、1 から

 スキュタイ人がメディアに進攻したころペルシアはメディアの支配下にあったのであり、そのメディアを征服したのがペルシアなのですから、ペルシアの王ダーレイオスがスキュタイに報復を唱えるのは単なる言いがかりなのですが、言いがかりでもそれを理由にしたのです。


 ところで、スキュタイ人の領土は黒海の沿岸で、ドナウ河の北側に位置しました。そこでダーレイオスは小アジアからボスポロス海峡を渡り、そこから北上してドナウ河に渡る道筋を計画しました。まず、大軍勢をヨーロッパ側に渡すためにボスポロス海峡に橋を架ける必要があります。この橋を作ったのがサモスの人マンドロクレスでした。彼は船を並べてその上に板を渡した船橋を建造したのでした。ポリュクラテースの頃からサモスはこういう土木的な技術が得意だったようです。

 船橋の出来栄えに満足したダレイオスは、その工事の棟梁であるサモス人マンドロクレスに莫大な恩賞を与えた。マンドロクレスは授かった恩賞の初物を供える趣旨で、ボスポロスの橋の全貌と特別席に坐ったダレイオス王の姿、それに王の軍が橋を渡る有様を描かせた絵を、次のような銘文とともにヘラの社殿に奉納した。


  魚豊かなるボスポロスに橋かけ渡したるマンドロクレス、
  船橋を記念してヘラの女神に捧げたてまつる。
  ダレイオス王が旨のまにまに工を終え、
  自らは栄冠を戴き、サモス人にはその誉を高からしめし者。


 これが架橋を完成させた人物の記念物であった・・・・。


ヘロドトス著「歴史」巻4、88 から

 上の引用で「ヘラの社殿に奉納した」とありますが、これはやはりサモス島のヘーラー神殿のことでしょう。サモス人にとってはやはりヘーラー神殿がとても大切なのでした。

 さて、ボスポロス海峡を渡ったら次はドナウ河です。この時代、ギリシア人たちはドナウ河のことをイストロス河と呼んでいました。

 ダレイオスはマンドロクレスに恩賞を与えた後、ヨーロッパに渡ったが、イオニア人には黒海内のイストロス河まで航行し、イストロスに達したならばこの河に架橋しつつ自分の到着を待つように指令しておいた。水軍を率いていたのはイオニア人、アイオリス人、ヘレスポントス人たちであったからであるが、かくて水軍は「青黒岩」を通り抜けてイストロス河目指して直航し、さらに海から二日間河を遡航して、イストロスの河口が幾つにも分岐している河の頸部(狭隘部)に架橋を始めた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、89 から

 イストロス河に架けた橋も船橋でした。ヘーロドトスは工事の指揮者の名前を書いていませんが、やはりこの橋もマンドロクレスの指揮の下に作られたのではないでしょうか。

 さて、ダーレイオスとその麾下の陸上部隊がイストロス河畔に到着し、全軍が渡河を完了したのをダーレイオスが見届けると、ダーレイオスはイオーニア人部隊に60日間この橋を守るように命令しました。これはスキュティアを征服したあとの帰路を確保するためです。そこでイオーニア、アイオリス、ヘレースポントスの海軍はここドナウ河の船橋付近に留まっていました。


 ダーレイオスの軍隊がスキュティア領内に進んだのち60日間が過ぎたのち、スキュタイ人たちが馬でやってきて橋を破壊するように言いました。スキュタイ人は遊牧民族で定住地を持たず常に移動しているためにペルシアの大軍はスキュタイ人を追跡しているうちに疲れてしまい、退却し始めていたのでした。そこで、スキュタイ人の一隊がイオーニア人たちのところにやってきて、ペルシア軍の退路を断ってしまうために橋の破壊を依頼したのでした。このスキュタイ人の提案に応じるかどうか、イオーニアの僭主たちの間で議論が始まりました。スキュタイ人の言う通り、橋を破壊してイオーニアを解放しようと主張したのはヘレースポントスにある町ケルソネーソスの僭主ミルティアデースでした。あくまでもペルシア軍の帰りを待つべきだと主張したのはミーレートスの僭主ヒスティアイオスでした。

自分たちがそれぞれ自国の独裁権を握っておられるのはダレイオスのお陰である、ダレイオスの勢力が失墜すれば、自分もミレトスを支配することができなくなるであろうし、他の者たちも一人としてその地位を保つことはできまい。どの町も独裁制より民主制を望むに相違ないからだ、というのが彼の主張であった。
 ヒスティアイオスがこの意見を述べると、それまではミルティアデスの説に賛成であった全員がたちまちヒスティアイオスの意見に傾いてしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、137 から

 サモスの僭主アイアケスもヒスティアイオスの意見に賛成した一人でした。結局、イオーニア人たちは船橋を破壊しなかったので、退却するペルシア軍はドナウ河を渡り、スキュティアから退却することが出来ました。こうしてペルシアのイオーニア支配は続くことになったのでした。