神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(7):ポリュクラテース(1)

 (おそらく)BC 532年、ポリュクラテース、パンタグノス、シュロソーンの3兄弟が、ヘーラーの神域において祭典を行っているサモス人の主だった者たちを殺し、アクロポリスを占拠して政権を奪い取る、という事件がありました。当初3兄弟は島を3分割して3名がそれぞれの区域を統治したのですが、やがてポリュクラテースがパンダグノスを殺し、シュロソーンにも攻めかかりました。シュロソーンはサモス島を脱出して、亡命者として各地を放浪することになりました。

サモスを掌握した当初、ポリュクラテスは国を三分して兄弟のパンタグノスとシュロソンに頒ったのであるが、その後その一人を殺し、年下のシュロソンを国外に追放して遂にサモス全土を手中に収めた。サモス全島を制した後、エジプト王アマシスと友好関係を結び、互いに贈物を交換した。そして短期日の間にポリュクラテスの脅威は急速に増大し、イオニアはじめその他のギリシアにもあまねくその名が響きわたった。それも当然で、彼が兵を向けるところ、作戦はことごとく成功したのである。ポリュクラテスは五十橈船百隻、弓兵一千を擁し、相手が何者であろうと容赦なく掠奪行為をほしいままにした。友人に感謝されるには何も奪わずにおくよりも、奪っておいてそれを返してやる方がよいのだ、と彼は常々いっていた。彼が占領した島は多数に上り、大陸でも多数の町を占領した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、39 から

 別の箇所でヘーロドトスは「われわれの知る限りではポリュクラテスが、海上制覇を企てた最初のギリシア人であった」と書いています。また「シュラクサイの独裁者たちを除いては、他のギリシアの独裁者中、その気宇の壮大なる点においてポリュクラテスに比肩しうるものは一人だにない」とも書いています。上の引用中「彼が占領した島は多数に上り」とありますが、その中にはイオーニア人たちの聖地であるデーロス島も含まれています。また「大陸でも多数の町を占領した」ともありますが、この頃「大陸」(小アジアのこと)はペルシアの支配下にありました。その支配地域を一部とはいえ占領したのですから、並の力ではありません。彼はミーレートスにも兵を進めましたが、ここを占領することは出来ませんでした。この時、ミーレートスを助けに来たレスボスの艦隊(おそらくはミュティレーネーの海軍)がサモスの艦隊に敗れています。

中でも特記すべきは、ミレトスのために総力を挙げて来援したレスボス軍と海戦を交えて破ったことで、サモスの城壁を繞る濠の全体は、この戦いで捕虜となったレスボス人がその虜囚期間中に掘ったものである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、39 から


 ポリュクラテースのもとでサモスは繁栄を迎えました。彼はギリシア中から有名な技術者を呼び寄せました。その中にはメガラ出身のエウパリーノスがいました。彼はサモスの町に供給する水を確保するために、サモスの背後にひかえる山に1km以上もあるトンネルを掘って水路を確保した人です。そのトンネルは山の両側から掘り進め、しかもほぼ狂いなく山の内部でつながったといいます。


エウパリーノスのトンネル



他には、当時の有名な医師であるクロトーン人のデモケデスや、クロイソスに巨大な金製と銀製の混酒器を作った名工テオドロスがいました。また技術者ではありませんが、詩人のアナクレオンもポリュクラテスの宮廷に招聘されました。
 また、ポリュクラテースは倒壊したヘーラー神殿の再建にも着手しました。


 その後ポリュクラテースは、エジプトとの同盟を破棄し、エジプトを攻めようとしているペルシア王カンビュセースに接近しました。当時カンビュセースは、エジプト攻略のための兵を集めているところでした。ポリュクラテースは使者をカンビュセースの許に送り、自分も兵力を提供したい、と伝えさせました。

 ポリュクラテスはキュロスの子カンビュセスがエジプト攻撃のために兵を集めている折に、サモス国民に知られぬように使者をカンビュセスの許へ送り、サモスの自分の所へも使者をよこして、兵員調達の依頼をしてほしいと要請したのである。これを聞いたカンビュセスは大いに乗気になって、自分のエジプト遠征に従軍する水軍の派遣をポリュクラテスに要請する使者を派遣した。ポリュクラテスは市民の内で、反乱を企てる嫌疑の最も濃厚な者たちを選び、四十隻の三段橈船に載せて派遣し、カンビュセスには彼らを再び帰国せしめぬように依頼しておいたのである。
 ポリュクラテスの派遣したサモス軍は、一説によればエジプトには達せず、航海の途中カルパトス島附近にきた時、談合の結果それ以上進まぬことに決したという。(中略)彼らがサモスに帰港してきたところを、ポリュクラテスは艦船を出して迎え撃った。しかし帰国組が勝ちを制して島に上陸したのであったが、彼らも島内での陸上戦闘には敗れ、かくして海路スパルタに走ったのであった。(中略)ポリュクラテスは、自分の配下のサモス市民の妻子を、船のドックに閉じ込め、万一市民たちが帰国部隊に寝返るような場合には、女子供をドックもろとも焼き殺す手筈を整えていたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、44~45 から

 ポリュクラテースによって捨て石にされる運命にあったサモス人たちは、帰国に失敗したのち、スパルタを頼っていったのでした。スパルタはこれらのサモス人の話を聞くと、彼らの帰国を助けるためにサモスに兵を出すことに決定しました。その決定をした理由のひとつが、例のスパルタがリュディア王クロイソスに贈った混酒器をサモス人が奪ったことに対する報復になる、ということだったそうです(「(6)サルディスの陥落」を参照下さい)。