神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(16):イオーニアの反乱


BC 498年、サモスとは目と鼻の先にある、大陸側の都市ミーレートスがペルシアに対して反乱を起しました。反乱の首謀者はミーレートスの僭主アリスタゴラスで、彼は本心はともかくミーレートスに民主政を宣言し、他の都市に対しても、ペルシアに協力する僭主を追放して民主政を敷くように呼びかけました。するとサモスではたちまち民主派の人びとがそれに呼応したので、身の危険を感じたサモスの僭主アイアケスはサモスを脱出して、ペルシア側に亡命しました。


 この反乱はカリアやキュプロスにも拡大し、キュプロスでのペルシア海軍との戦いではサモスの派遣した海軍が一番活躍したのでした。しかしキュプロスは最終的にはペルシア軍に占領されてしまいます。反乱は何年も続き、BC 494年、態勢を立て直したペルシア側が反乱の震源地であるミーレートスを占領しようとして海陸の大軍を派遣する事態になりました。

ミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが、彼らとともに最近征服されたキュプロスからの派遣軍やキリキア人、さらにはエジプト人も攻撃に加わった。
 ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から

 サモスはラデーに60隻の軍船を派遣しました。集結したイオーニアの軍船は総計353隻でした。一番多く船を出したのはキオスで100隻で、ミーレートスも80隻を出しました。一方ペルシア側軍船は600隻でしたが、イオーニア側の軍船の数を知って動揺しました。

ペルシアの諸将はイオニア軍艦船の数を知って、これを制圧することができぬのではないかと危惧を懐くにいたった。海上を制することができなければ、ミレトスを攻略することはできぬであろうし、かくてはダレイオスの不興を買うことになろうと恐れたのである。彼らはあれこれと思いめぐらした挙句、イオニアの独裁者たちを招集することにした。これはミレトスアリスタゴラスによって政権の座を追われペルシアに亡命したものたちで、たまたまこの時ミレトスの攻撃に参加していたのであったが、このものたちのうち居合せたものを召集して次のようにいった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、9 から

この中にはサモスから逃げてきた元僭主のアイアケスもいました。

イオニア人諸君、今こそ諸君各自がペルシア王家に対する諸君の忠誠心を表わす時である。諸君はおのおの自国民を連合軍から離脱させるよう計らってもらいたい。その際確約事項として、われらは決して反乱の罪を問うて処罰を加えることはせぬし、聖所や個人の住居を焼くこともない、またこれまで以上に虐待することもしないと通告せられたい。しかし、もし彼らがこれに従わずあくまで戦争に訴えようとするならば、必ずや彼らにふりかかるべき災厄の数々を挙げて威嚇してやられるがよい。すなわち、敗戦の暁には彼らは奴隷となり、男児は去勢され、女児はバクトリアへ移される。またその国土は没収して他民族に与えられる、ということじゃ。」
 ペルシアの司令官たちの右の言葉に応じて、イオニアの独裁者たちはこの趣旨を伝える使者を夜のうちにおのおのの母国へ送った。しかしこれらの通報を受けたイオニア各市では、相変らず情勢判断の誤りに気付かず、裏切りに踏み切ろうとしなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、9~10 から

アイアケスもラデーに待機しているサモス艦隊に使者を送りました。この時点でサモス派遣軍の指揮者たちはペルシア側に寝返るつもりはありませんでした。しかし、それから数日後、彼らは寝返りを決意します。それには次のような事情がありました。


 ポーカイアの司令官ディオニュシオスはイオーニア艦隊に海戦の訓練を積ませることが必須であると提言し、その意見がイオーニア海軍の指揮官たちの会議で通りました。そこでディオニュシオスはペルシア艦隊が包囲している中で、海戦の訓練を指導しました。それは厳しい訓練でした。最初の7日間はイオーニア人たちはディオニュシオスの指示に従っていたのですが、8日目からは訓練が厳しすぎると不平を述べて、彼の指示に従わなくなってしまったのです。

 さてサモス派遣部隊の指揮官たちは、こうしたイオニア人の態(てい)たらくを見て、シュロソンの子アイアケスが以前ペルシア方の要求に従って申し送ってきた提案、すなわちイオニア軍との同盟を破棄せよという要求を受け入れることに決したのである。サモス人がこの提案の受諾にふみ切ったのは、一つにはイオニア軍の綱紀がはなはだしく紊乱しているのを眼にしたからでもあるが、またイオニア軍がとうてい大王の戦力を破り得ぬと判断したことにもよる。よしや現在の水軍を破り得たとしても、必ずやダレイオスはこれに五倍する大艦隊を改めて派遣するに相違ないと彼らは十分承知していたからである。そこでイオニア人が軍律に従って精励するのを拒否するのを見るや、これを口実にして、自国の聖所や個人の財産の保全を計るのが有利と判断したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、13 から