神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(12):マイアンドリオス

 さて、話をポリュクラテースが謀殺された時点に戻します。ポリュクラテースを謀殺したオロイテスはその後サモス島を攻めたかといいますと、攻めてはおりません。それはなぜかといいますと、ちょうどこの頃、ペルシア王カンビュセースが遠征中のエジプトで急死したという、ペルシア王国にとっての大事件が起きたからです。カンビュセース死後、ペルシア王位をめぐっての争いが始まりました。この時正式な王位継承者がいたのかどうか不明です。最終的には傍系の王族であったダーレイオスが王位を手に入れました。そのダーレイオスによってオロイテスは殺されてしまいます。とはいっても、オロイテスがこの王位争いに巻き込まれただけの被害者だったかどうか分かりません。この争乱の最中にオロイテスは、かつて自分を罵ったライバルの総督ミトロバテスを殺しています。オロイテスは、サモス占領のことは一旦、脇に置いておいて、この動乱で自分の地位を上げようと積極的に動いたのでしょう。そしてその過程でダーレイオスと対立し、ダーレイオスによって殺された、というのが真相ではないでしょうか。



 こうしたわけでポリュクラテースが殺されたあとも、サモスはペルシアから攻撃されることはありませんでした。ポリュクラテースペルシア人オロイテスの許に向った時、サモスの統治を自分の片腕として信頼していたマイアンドリオスに託していました。このマイアンドリオスがサモスを統治していたわけですが、そこにポリュクラテースの死の知らせが届きました。このマイアンドリオスはポリュクラテースに仕えていたにもかかわらず、実は僭主政に反対だったのでした。そこで、彼はポリュクラテースの死をゼウス神の恩恵と考えて、ゼウス・エレウテリオス(解放の神ゼウス)の祭壇を建て、そのまわりに聖域を設けたのでした。そして市民を集めて、彼らの前でサモスが民主政に移行することを宣言しました。

「諸君も知っているように、ポリュクラテスの王笏とすべての権力は私に委任されており、現在私には諸君を統治することもできるのだ。しかし私は、他人がすれば自分が咎めるようなことは極力しないつもりでいる。実際自分と同等の人間の上に独裁者として君臨したポリュクラテスのやり方は私の好まなかったところで、ポリュクラテスならずとも同様のことをする者は何人といれども私の気には入らぬのだ。さてポリュクラテスが定業を果して世を去った今、私は政権を国民全部の手に委ね、諸君のために万民同権(イソノミア)の原則を宣言する。しかしながら私は次のことだけは、私の特権として要求してもよいと思う。すなわちポリュクラテスの資産の内から六タラントンを私に与えること、さらにはゼウス・エレウテリオス(解放の神ゼウス)に仕える祭司の職を、私のみならず私の代々の子孫のために要求する。この神の社を建立したのは私であり、私が諸君に自由を与えるのであるからだ。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、142 から

 マイアンドリオスのこの提案を市民が素直に賛成すればよかったのですが、テレサルコスという市民の中でも名望の高い者が、こう言ったのでした。

「実際素姓も卑しく疫病神のようなお前に、われわれを治める資格などあるものか。それよりもお前が管理している資財の会計報告をしたらどうだ。」


ヘロドトス著「歴史」巻3、142 から

 その言い方にマイアンドリオスは民衆扇動者の匂いを嗅ぎつけたのでした。そしてたとえ民主政を施行したとしてもこういう民衆扇動家によって再び僭主政が樹立されるに違いない、それならばいっそ自分が政権を維持して正義を行う方がましではないか、とマイアンドリオスは考えたのでした。

 そこでマイアンドリオスも、よしや自分が政権を放棄しても、必ずや自分の代りに他の者が独裁者となるであろうと悟り、かくてもはや政権を手離すことは考えず、城中に帰ると財務の説明をすると称して(自分の反対者を)一人ずつ個別に呼び、捕えて監禁してしまった。これらの者が監禁された後、マイアンドリオスは病に臥すことになった。すると彼の弟でリュカレトスなるものが、兄は死ぬものと思い、自分がサモスの政権を獲得するのを容易にする目的で、監禁中の者たちをことごとく殺してしまった。つまりこれは、この者たちがどうやら自由の権利を望まなかった報いであったようである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、143 から

 このマイアンドリオスのことをヘーロドトスは「自ら正義の典型たるべく志しながら、それを果たせなかった人物」と評しています。古代ギリシアの政治闘争にはなかなか激しいものがありますが、この話は現代に通じるような、政治の難しさを示しているように思えます。