神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(18):ザンクレー奪取

アイアケスが僭主に復帰したのちのサモスの状況については、よく分かりません。ただ、アイアケスがサモスにやってくる前に亡命した人々がいたことをヘーロドトスは伝えています。

一方サモスでは、富裕な階級のものたちは、サモス軍の指揮官たちがペルシア軍に対してとった行動にあきたらず、海戦直後に評議した結果、独裁者アイアケスが国に乗り込んでくるに先立ち、海外へ移住し、決して留まってペルシア人とアイアケスに隷従するまいと決意したものである。
 というのはちょうど同じ頃、シケリアのザンクレ人がイオニアに使者を派遣してきて、自分たちがイオニア人の町の建設を計画しているカレ・アクテへくるようにイオニア人に勧誘してきたからである。このカレ・アクテと呼ばれる土地は、シケリア人(シケリア原住民)の住む地域で、ティレニア海に面するシケリアの海辺にある。
 さてイオニア人のうちこの勧誘に応じて植民に参加したのはサモス人だけで、ほかにミレトスの避難民が同行した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、22 から

上の引用で「シケリア」とあるのは今のシシリー島のことです。「ザンクレー」は今のメッシーナのことです。そこの僭主であるスキュテスが新しい町を建設するので、イオーニア人に植民の勧誘をしていたのでした。アイアケスに反対するサモス人たちはこの勧誘に応じようと考えたのでした。


 ところで、上の引用でアイアケスの支配を逃れようとしているのは「富裕な階級のものたち」であるとされています。ここから推測するに、アイアケスは元々、富裕な人々、おそらくは貴族に対して厳しい政策をとっていたのかもしれません。さらに想像すれば、貴族と平民の間の調停者の役割をはたしていたのではないでしょうか? たとえ独裁的な政治体制といえども、どこかに支持者層がなくては継続することはないと思います。彼の権力基盤は、この調停者という役割にあったのではないでしょうか?


 また、ラデーの海戦で、司令官の命令に反して戦線に留まったサモスの11隻の三段橈船の艦長たちは、この富裕な階級に属していたのではないか、とも想像します。


 さて、このサモスから亡命する富裕な階級の人々の話は「8:ポリュクラテース(2)」でご紹介した、僭主ポリュクラテースを逃れて亡命していったサモス人たちの話を思い出させます。そしてそのサモス人たちが、自分たちには何も危害を加えていないシプノス人たちを武力で脅して金を巻き上げたように、今回のサモス人亡命者たちも無道な行いをします。それともこの時代はこのような裏切りが横行していたのでしょうか?

 ところがこの移住の最中に次のような事件が偶発したのである。シケリアを目指すサモス人の一行がロクロイ・エピゼピュリオイに着いた頃、ザンクレ人はその王スキュテスの下に、シケリア人のある町を占領の目的で包囲していた。ところがレギオンの独裁者アナクシレオスというものがこうした事情を知り、当時ザンクレと不和の間柄であったので、サモス人と連絡をつけ、彼らが目指すカレ・アクテへゆく計画を放棄して、あたかも男子が不在のザンクレを占領すべきことを説いたのである。サモス人はアナクシレオスに説き落とされてザンクレを占領した・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻6、23 から

 このサモスからの亡命者たちは、自分たちを勧誘したザンクレーの僭主スキュテスを裏切って、ザンクレーを占領してしまいます。ところでザンクレーと不和であったというレーギオンは、ザンクレーとはメッシーナ海峡を挟んだ対岸、つまりイタリア半島側にありました。現在のレッジョ・カラブリアにあたります。

ザンクレ人は自国が占領されたことを知るとその救援に向い、彼らと同盟の関係にあったゲラの独裁者ヒッポクラテスに応援を求めた。ところがヒッポクラテスは軍を率いてザンクレ人に来援すると、ザンクレの独裁者スキュテスを町を喪失した責任者として捕縛し、その弟のピュトゲネスとともにイニュクスという町へ放逐してしまった。それからサモス人と話し合いをした結果誓約をとり交して、残余のザンクレ人を裏切って、彼らをサモス人に引き渡したのである。この裏切りの代償としては、市中にあるすべての動産および奴隷の半分と田畑の全部をヒッポクラテスが入手することが、サモス人によって確約されていたのであった。ヒッポクラテスはザンクレ市民の大部分を捕えて奴隷として自分が確保し、重だった市民300人を処刑すべくサモス人に引き渡した。ただしサモス人はその処刑を行わなかった。
(中略)
 ペルシアの難を免れたサモス人が、世にも美しいザンクレの町を労せずして手中におさめた経緯は右のとおりであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、23~24 から

さらに、ザンクレーと同盟関係にあったゲラの僭主ヒッポクラテスまでもザンクレーを裏切ってしまったのでした。そのおかげで、サモス人はザンクレーの町を手に入れることが出来たのでした。


この話はトゥーキュディデースの「戦史」にも記事があります。ただし、サモス人の運命についてはヘーロドトスと異なったことを書いています。

イタリア半島の)キューメーおよび(エウボイア島の)カルキスのそれぞれから、ペリエーレースとクラタイメネースがえらばれて、植民地の創設者となった。最初からのこのザンクレーという名称はシケロス人がつけたものであって、この地域が鎌のような形をしているところから生れたのである(シケロス語で鎌のことをザンクロンという)。だがその後、サモス人をはじめとするその他イオーニアからの諸邦人がペルシア人の侵攻を逃れてシケリアに渡来し、ザンクレー人を追放したかと思うと、間もなくかれらサモス人もレーギオンの独裁者アナクシラースの手で追放されてしまった。アナクシラースは自ら先導して諸部族混成の植民地をここに再建し、自分自身の祖先の故地の名にちなんでこの植民地をメッセーネーと改称した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6、4 から

トゥーキュディデースによれば、サモス人たちは一旦はザンクレーを手に入れたが、まもなくレーギオンの僭主アナクシラースによって追放された、ということです。このレーギオンの僭主アナクシラースというのは、ヘーロドトスの伝えるレーギオンの僭主アナクシレオスと同一人物でしょう。サモス人にザンクレーを占領するようにそそのかしたのがこの人物でした。そうすると、アナクシレオス(またはアナクシラース)は最初からサモス人を裏切るつもりで、彼らをそそのかしたのかもしれません。


一方、ザンクレーを追放されたスキュテスはペルシアに向い、ダーレイオス王の宮廷に身を寄せました。

 ザンクレの独裁者スキュテスはイニュクスを脱走してヒメラへゆき、そこからアジアへ渡り、東上してダレイオス王の許に身を寄せた。そしてダレイオスによって、ギリシアから王の許へきたもののうち誰よりも誠実な人間であると認められた。というのは、王の許可を得ていったんシケリアへ帰ったものの、再び王の許へ帰参したからで、彼はペルシアにあって何不自由なく暮し高齢に達してその生涯を終えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、24 から

このスキュテスは、ダーレイオスによってコース島の僭主に任命されたようです。というのはヘーロドトスの記述の中にスキュテスの子カドモスという人物がコース島の僭主として登場し、彼はその地位を父から受け継いだ、とあるからです。こうして、この話はコース島の話にもつながっていくのです。

このカドモスという人物はこれより先、コス島においてすでに安定していた独裁者の地位を父から受け継いでいたのであるが、これを脅かすような事情は何一つなかったのに、自分の正義感から自発的に政権をコス人の裁量に委ねてシケリアへ去ったのである。そしてこの地で、後に名称をメッセネと変えたザンクレの町をサモス人の手から奪取して、ここに住みついたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、164 から

スキュテスの子カドモスは、かつて父の領土だったザンクレーを「サモス人の手から」奪い返したというのです。つまりヘーロドトスは、この頃までザンクレーの町がサモス人によって占拠されていたと考えていたわけです。一方、トゥーキュディデースはそれ以前にサモス人はザンクレーから追放されたと考えていたわけです。私にはどちらが正しいのか分かりません。