神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(8):ポリュクラテース(2)

 さてギリシアで一番強いという評判のスパルタは、サモス人たちの要請を受け入れて(というのもこのサモス人たちはポリュクラテースによって戦場の捨て石にされることになっていたためにポリュクラテースに反旗を翻したからですが)海路はるばるサモスまで攻めてきました。

 スパルタは大軍をもって来攻すると、サモスの町を包囲攻撃した。スパルタ軍は城壁を攻撃し、町はずれの海辺に立つ城楼にとりついたが、やがてポリュクラテスが自ら大部隊を率いて来援するに及んで撃退された。(中略)
 スパルタ軍はサモスを攻囲すること四十日に及んだが、戦局が一向に進展せぬので、ペロポネソスへ引き上げていった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、54~56 から

 ポリュクラテースはこのスパルタ軍をも撃退したのでした。スパルタが手を引いたあとの亡命サモス人たちには、その後いろいろな出来事が待っていました。

 ポリュクラテスに戦いをしかけたサモス人たちは、スパルタ軍が彼らを見捨てて引き上げようとすると、彼らもまた兵をおさめ、海路シプノス島に向った。これは彼らの軍資金が欠乏していたためであるが、当時シプノス人はその繁栄の頂上にあったのである。これは島内に金銀の鉱山を擁していたためで、彼らは数ある諸島中最大の富強を誇り、その富の強大であったことは鉱山の収入の充分の一を費してデルポイに宝蔵を献納したほどで、この宝蔵は最も豪華を誇る他の宝蔵に比しても遜色がない。(中略)サモス人の一行はシプノスに近付くと、船団の内から一隻を出し、使節を町へ送らせた。(中略)さて使節の一行が到着すると、彼らはシプノス人から十タラントンの貸与を要求した。シプノス人が貸与を拒むと、サモス人はシプノスの田畑を荒らした。これを知ったシプノス人はすぐに防衛にかけつけ、サモス人と交戦したが敗れ、多数のものがサモス人によって、市中から締め出されてしまった。そして結局シプノス人はサモス人に百タラントンを支払うことになったのである。
 サモス人たちは(中略)クレタ島のキュドニアに住みついた(中略)。


ヘロドトス著「歴史」巻3、57~59 から

 なんとも非情な、弱肉強食な話です。いままで私は、このサモス人たちをポリュクラテースに迫害された人々と思って同情してしていたのですが、今度は彼らが迫害者になって、彼らに何も害を与えていないシプノス人を攻撃して金を巻き上げたのでした。

彼らはここに五年間留まり繁栄したが、その勢いの盛んであったことは、今日キュドニアにあるいくつかの神祠、また女神ディクデュナの神殿を建立したのがこのサモス人であったことからも知られる。
 しかし六年目になって、アイギナ人クレタ島民の協力の下にサモス人を海戦に破って隷属せしめ、サモスの艦船から猪の標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

 最終的にはこのサモス人たちはアイギーナ支配下に入ったようです。たぶん殺されるようなことはなったのでしょう。


 さて、この反乱も鎮圧したポリュクラテースですが、英語と日本語のウィキペディアの「ポリュクラテス」の項目によるとBC 522年に、アポローンに捧げた二重の祭典を挙行したそうです。二重の、というのはアポローンの主要な崇拝地(神殿)としてギリシア本土のデルポイと、エーゲ海の島デーロスの2つがあり、この2つの崇拝地のための祭典だったということのようです。その祭典自体をどこで行ったのでしょうか? それについてはこれらの記事は答えていません。私がこれらの記事で興味を持ったのは、「ホメーロス風讃歌」の中の「アポローンへの讃歌」がこの祭典のために作られたという説があるという箇所です。

それというのも、この「アポローンへの讃歌」は前半はデーロスに関する神話を、後半はデルポイに関する神話を物語ったものだからです。この構成が、ポリュクラテースの挙行した祭典の構造に対応していることを、この説はたぶん論拠にしているのだと思います。もし、この説が正しいのであれば、この、デーロス島に集い、アポローンを讃えて行う祭典の様子を描いた以下の箇所は、あるいはBC 522年の祭典の様子を反映しているのかもしれません。

 しかしポイボス*1よ、あなたは何にもましてデーロスを心の底より愛してる。その地には、裳裾ひくイオニア人が、自分たちの子供や貞淑な妻を伴ない集まりつどう。彼らはあなた*2を記念して競技の場を設けては、拳闘に、舞踊に、歌にと、あなたを喜ばせる。
 イオニア人がつどう場にいあわせた者は、この人々を不死なる者、老いを知らない神々に違いない、と言うほどだ。それほどまでに彼らのすべてが美しい。男たちも、帯の美しい女たちも美しく、彼らの足速い船、豊かな品々、これらを目にするならば、心楽しまずにはいられない。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「アポローンへの讃歌」より


 しかし、私にはこの説が正しいのかどうか、よく分かりません。この「アポローンへの讃歌」が書かれた年代としてはBC 522年というのは新し過ぎるような気がします。