では、話をサモスの歴史と伝説に戻します。
レーラントス戦争の終結の後、キンメリア人が馬に乗って東から小アジアに進入し、エペソスなどを襲った時に、海を隔てたサモスにはキンメリア人が襲ってくることはありませんでした。彼らは船に乗る習慣がなかったのです。
このキンメリア人を小アジアから追い払ったのがリュディア王アリュアッテスでしたが、このアリュアッテスのところに無理やり送られようとしていたケルキューラの上流家庭の男児300人をサモスが救ったことがありました。ケルキューラというのは、ギリシア本土から見てエーゲ海とは反対側のイーオニア海側にある島で、当時はコリントスの僭主ペリアンドロスの支配下にありました。そのケルキューラの上流階級の者たちがペリアンドロスの息子を殺害したために、ペリアンドロスは報復としてケルキューラの上流階級に属する男の子を300人選んで、リュディアの首都サルディスに送ろうとしたのでした。この男の子たちはサルディスで宦官にされることになっていました。よく分かりませんがサルディスというのはそういうところでもあったのでしょう。
さて、その男児300人を載せたコリントスの船はエペソスを目指して島づたいに航行しました。エペソスに上陸してからは陸路サルディスに向うことになっていました。エペソスのひとつ前の停泊地がサモスでした。サモス人たちはこれらケルキューラの男児の境遇を知ると以下のようなことを実行したのでした。
子供たちを携行したコリントス人の一行がサモスに着いた時、子供たちがサルディスへ送られる事情を聞き知ったサモス人たちは、アルテミスの神域に難を避けるように子供たちに教えた。そして神の庇護を求めてきた子供たちが神域から拉致されるのを許さず、コリントス人が子供たちを食糧攻めにしようとすると、サモス人はその対策として祭を催したのであるが、サモスでは今でもその時と全く同じようにしてこの祭を祝っているのである。すなわち子供たちが歎願者として神域に留まっている間中、日没とともに少年少女の歌舞を催し、彼らに胡麻と蜂蜜入りの菓子を必ず携帯させる規則を設けた。ケルキュラの子供たちがそれを奪って食糧に当てさせるためであった。そしてこれは、子供たちを見張っていたコリントス人の一行が諦めて、子供をそこへ残して引き上げるまで続けられたのである。子供たちはサモス人によってケルキュラへ送り届けられた。
ヘロドトス著「歴史」巻3、48 から
アリュアッテスの次のリュディア王がクロイソスです。クロイソス王がミーレートスを除く大陸沿岸のイオーニア諸都市を征服した時に、サモスは征服されることはありませんでした。それからさらに下ってBC 546年、リュディアの首都サルディスがペルシアによって陥落させられた、いわゆるサルディスの陥落の時にもサモスはそれほど影響を受けなかったようです。
サルディスの陥落に関連して、サモスについての奇妙な話をヘーロドトスは伝えています。スパルタがリュディアのクロイソス王に贈った大きな混酒器(クラテール。これはワインに水などを混ぜるための器で、古代のギリシア人はワインを水で薄めて飲むのでした。水で薄めずにワインをそのまま飲むのは無作法な大酒飲みのやることとされていました。)をサモス人が横取りした、というのです。あるいはスパルタ人がサモス人にそれを売り払ったのかもしれない、とヘーロドトスはつけ加えています。
右のような理由から、スパルタはクロイソスからの同盟の申し出を受諾したのであったが、それにはクロイソスがギリシア全土の中から、特にスパルタを友好国として選んでくれたということもあずかって力があった。そこでスパルタは、クロイソスから申し出があればいつでも応ずる気持になったのみならず、容量三百アンポレウスに及ぶ青銅の混酒器を作り、外縁のまわり一面にさまざまな模様を彫りつけ、これをクロイソスへの返礼の意味で、送り届けようとした。この混酒器はしかし、サルディスに届かなかったのであるが、その原因については次の二説がある。
スパルタ側のいうところでは、混酒器がサルディスへ運ばれる途中、サモスの海域まできたとき、それを聞き知ったサモス人が、軍船で押し寄せてきて、混酒器を奪ったのだという。しかし当のサモス人のいうところによれば、混酒器を運搬するスパルタ人の来るのが遅すぎて、彼らは途中でサルディスが陥落し、クロイソスも捕われたことを知ると、混酒器をサモスで売ってしまったのだという。そしてサモスの数人の市民が個人的にそれを買い受け、ヘラの神殿に奉納したというのである。ひょっとすると、売り払った連中がスパルタへ帰ってから、サモス人に奪われたといったのかも知れない。
ヘロドトス著「歴史」巻1、70 から
本当は奪ったのではなく買ったのかもしれないのですが、この出来事がのちに尾を引き、スパルタがサモスを攻撃することになります。その話は別途、紹介します。
ところで混酒器といえば、この頃活躍していたサモスのテオドロスという名工が、クロイソスのために金製および銀製の二個の巨大な混酒器を制作した、という話もヘーロドトスは伝えています。
サルディスの陥落の後、ペルシアの将軍ハルバコスが小アジアの諸都市を順番に征服したとき、ヘーロドトスによれば
こうしてイオニアは再度隷従の憂目を見たのであるが、ハルバコスが大陸のイオニア諸市を征服すると、島に住むイオニア人たちもこれに恐れをなして、自発的に(ペルシア王)キュロスに降伏してしまった。
ヘロドトス著「歴史」巻1、168 から
ということでした。この記事からすると、サモスも「島に住むイオニア人たち」の中に含まれるので、この時にペルシアに服属したように思えます。しかしヘーロドトスのその後の記述を見ていくと、どうもそうではなさそうです。このころサモスでは誰がリーダーで、ペルシアに対してどのような対応をしたのか分かるといいのですが、私の調べた範囲では情報を得ることが出来ませんでした。おそらく当時のサモスでは貴族の党派による争いが頻発していて、政権が安定していなかったのではないか、と推測します。