神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(7):イオーニアの反乱

ペルシアの初代の王キューロスの時にペルシアに服属したメーテュムナでしたが、キューロスの次にペルシア王になったカンビュセースがエジプトを征服する時、その軍の中に、レスボス島のミュティレーネーの船があったことをヘーロドトスは記しています。おそらくメーテュムナの船もあったことでしょう。3代目の王ダーレイオス1世の治世の頃にはペルシア王国はバビロニアとエジプトを含む巨大な帝国に成長していました。ペルシア支配下のイオーニア、アイオリスの町々はペルシアの軍事行動に兵を提供しなければなりませんでした。メーテュムナはこの時も兵力を供出しただろうと思います。

(上:ペルシア王国の領域)


さてBC 499年、ミーレートスを中心とするイオーニアの諸都市はペルシア王ダーレイオスに対する反乱を起しました。いわゆる「イオーニアの反乱」です。メーテュムナはミュティレーネーとともにこの反乱に参加を決意しました。イオーニアの反乱は5年続きました。途中で反乱の首謀者だったミーレートスの僭主アリスタゴラスが逃亡する、という事件もありました。しかし首謀者が逃亡したからといって、一旦反乱に踏み切ったイオーニア、アイオリスのギリシア諸都市はいまさら戦いを止めるわけにはいきませんでした。やがて、ペルシアの陸軍と艦隊が同時にミーレートスに迫ってきました。

ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。
 やがて船の装備を終えてイオニア軍は集結したが、アイオリス人のうちレスボス島の住民も彼らに加わった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、7~8 から

上の引用に登場する小島「ラデ」は、今では長年の堆積により内陸になっています。


さて、このように議決して各イオーニア都市は軍船を派遣しましたが、アイオリスに属するレスボス島からも70隻の軍船が派遣されています。それがレスボス島のどの町からの軍船であるのかヘーロドトスは記していません。70隻の軍船の中にはメーテュムナから派遣された軍船もあっただろうと推測します。
ラデー島に集結した各都市の軍船の数は以下のとおりでした。

  計     353隻


対するペルシア艦隊は600隻でした。


しかし、いざ決戦になると最右翼にいたサモス艦隊の大部分が裏切って戦線を離脱し、帰国してしまいました。それを見たレスボス艦隊もまた、戦線を離脱しました。

伝えられるところでは、サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケスと打ち合わせておいたとおり、帆を揚げて戦線を離脱しサモスへ帰航していったという。(中略)
 レスボス人も自分の隣りの部隊が逃走するのを見ると、このサモス軍にならい、同様にイオニア艦隊の大部分が同じ行動に出たのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から

この結果、この海戦はペルシア側が勝利し、その後ミーレートスは占領され、5年間の反乱も収束に向いました。


その後のメーテュムナはペルシアに占領されました。

ペルシアの艦隊はミレトス附近で冬を過したが、あくる年になって出航すると、キオス、レスボス、テネドスなど、大陸に近接した諸島を易々と占領した。ペルシア軍はこれらの島を占領するごとに、その住民を「曳き網式」に掃蕩したものであった。曳き網式の掃蕩というのは次のようにして行なうのである。兵士が一人ずつ手をつないで、北の海岸から南岸までを貫き、こうして住民を狩り出しながら全島を掃蕩するのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31 から

「曳き網式」掃蕩の話は、本当にこんなことが出来るのかちょっと疑問ですが、ともかくペルシアに敵対すると思われる者は徹底的に除去されたと思われます。