神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

サモス(17):ラデーの海戦

「イオーニアの反乱」の最後の決戦となるラデーの海戦が始まりました。

さてフェニキアの艦隊が攻撃に向ってくると、イオニア軍もこれに対抗すべく一列の縦隊となって船を進めた。両艦隊はやがて近接して交戦した(中略)。伝えられるところでは、サモス派遣部隊はこの時かねてアイアケスと打ち合せておいたとおり、帆を揚げて戦線を離脱しサモスへ帰航していったという。(中略)レスボス人も自分の隣りの部隊が逃走するのを見ると、このサモス軍にならい、同様にイオニア艦隊の大部分が同じ行動に出たのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から


上の地図で見るとラデーからサモスまでの距離はほんの少しです。この地図には縮尺がついていませんが、Google Mapで見たところ10km未満でした。ただし、上の地図は当時の地形を復元した地図であって、現在ではラデー島のあたりはかなり陸地が迫ってきており、あるいはすでに大陸と地続きになっているかもしれません。一方、当時海に面していたミーレートスは現代では完全に海岸から離れてしまっています。


そんな戦場から近くに逃げただけでサモスの艦隊はペルシア艦隊から追撃されることはなかったのでした。サモスの港まで逃げてきた艦船に乗っていた人々は、10km未満の地点で起こっている戦闘について何を思ったことでしょう。これで自分たちの国の安泰が図られる、という思いもあったことでしょうし、一方でイオーニアの他の国々を見捨てたことに対して後ろめたい気持ちもあったことでしょう。そんないろいろな思いを巡らしている時に、サモスと同様に戦線を離脱したレスボス島の軍船が(おそらくミュティレーネーを主力とする艦隊が)、自分たちの目の前を通過し、サモス島の東を通ってレスボス島に引き返していくのが、見えたのでした。

(かつてのラデー島の近くの風景)


その中にあって、サモス艦隊の一部の艦船は、戦線を離脱せよというサモス艦隊の司令官の命令に従わず、戦線に踏みとどまることをよしとしたのでした。

ただし十一隻の三段橈船だけは、その艦長が司令官の命に服せず踏みとどまって海戦を交えた。この残留隊の行為はまことに見事であったというので、サモスの当局はこの行動を顕彰するため、石柱に彼らの名を父の名とともに刻むという栄誉を与えた。この石柱は今もサモスのアゴラにある。


ヘロドトス著「歴史」巻6、14 から


それでもサモスとレスボスの艦隊が離脱したことはイオーニア連合軍にとっては大きな痛手でした。残った艦隊の中で、キオスポーカイアの派遣した艦隊は見事な戦闘を示したということです。

 踏みとどまって海戦を交えた部隊の内、キオス軍は卑怯な振舞いをいさぎよしとせず目覚ましい働きを示しただけに、痛手を蒙ることも最もはなはだしかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、15 から

 一方ポカイア人ディオニュシオスは、イオニア軍の壊滅を知るや、敵船三隻を捕獲し、ポカイアもやがて他のイオニア諸国とともに奴隷化されることを十分承知していたので、もはやポカイアへは戻らず、そのまますぐにフェニキアに航行し、ここでフェニキアの商船数隻を撃沈して多額の金品を入手するとシケリアへ向かった。そしてここを根拠地として海賊となったのであるが、その襲撃はもっぱらカルタゴ人、エトルリア人に向けられ、決してギリシア人を襲うことはなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、17 から


しかし、最終的にはイオーニアの海軍は壊滅を免れませんでした。

 ペルシア軍は右の海戦でイオニア軍を破るや、海陸両面からミレトスを包囲し、城壁を掘りくずし、またあらゆる攻城用の兵器を駆使して攻め立て、アリスタゴラスの反乱以来六年目にとうとう完全にミレトスを攻略した。ペルシア軍は全市民を奴隷にした(後略)。


ヘロドトス著「歴史」巻6、18 から

 こうしてミレトスの町から、ミレトス市民は一掃されてしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、22 から


このサモスの裏切りによって、サモスはペルシアからの報復を免れることが出来ました。ただし、追放した僭主アイアケスを再び、支配者として迎えることを甘受しなければなりませんでした。

 ミレトスをめぐって起った海戦の後、フェニキア人はペルシア側の命により、シュロソンの子アイアケスを、味方を利して大功のあった殊勲者であったというので、サモスへ帰し復権せしめた。またダレイオスに叛いた諸市の内サモスのみは、海戦に際して艦船を離脱させた功により、その町も聖域も焼却を免れた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、25 から


では、その他のイオーニア都市はどうなったかといいますと、ペルシアから厳しい報復を受けたのでした。

 ペルシアの艦隊はミレトス附近で冬を過ごしたが、あくる年になって出航すると、キオス、レスボス、テネドスなど、大陸に近接した諸島を易々と占領した。(中略)
 この時ペルシアの諸将は、ペルシア軍に反抗の陣を構えたイオニア人に向って彼らが放った威嚇をその言葉どおり実行したのであった。というのは、彼らはイオニア諸市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し男子の性を奪い、また器量のすぐれた娘を親許からひき離して大王の宮殿へ送った。右のほか、さらに各都市に火を放ち聖域もろともに焼き払ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、31、32 から


イオーニアの反乱の結果は以上のようなものでした。