神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クニドス:目次

1:はじめに

クニドスはエーゲ海小アジア側にあったドーリス系の都市です。クニドスの町の位置は、大陸と、トリオピオンという名の島との境のところにあり、島はわずかなつなぎ目で大陸とつながっており、クニドスはまさにそのつなぎ目のところにありました。彼らの住む地域は海に面し、トリオピオンの名で呼ばれる地方がそれであるが、(東は)ビュバッソスの半島に起る。クニドスの領土は僅かな地域を除いてことごとく海に囲まれ、北をケラメイコス湾、南をシュメおよびロドスの海域が限っている・・・・


2:ペルシアの侵攻

クニドスが創建されてから、リュディアの支配下に入るまでの歴史は分かりませんでした。また、リュディアの支配下に入った事情についても明らかではありません。ヘーロドトスはリュディアとイオーニア系都市との攻防については記録しているものの、ドーリス系都市との攻防については記録していません。ヘーロドトスの出身がドーリス系のハリカルナッソスであったため、何か書けない事情があったのかもしれません。ヘーロドトスはすでに征服されたあとの状態を次のように・・・・


3:ペルシアとアテーナイ

さて、ペルシアの支配下に入って20年ぐらい経った頃、ペルシア王ダーレイオスがイタリア南部のギリシア系都市に送った偵察の者たちを、タラス(現在のターラント)から亡命していたギロスという者が助けたことがありました。クロトンを発ったペルシア人たちは、イアピュギアへ漂着し、ここで奴隷の身に落とされていたところ、タラスから亡命していたギロスなる者がこれを救い、ダレイオスの許へ帰してやった。ダレイオスはこの働きに対して望みのものを与えようと・・・・


4:ペロポネーソス戦争

BC 431年、ペロポネーソス戦争が始まりました。これはアテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟との間の戦争でした。クニドスはスパルタの植民地でありながら、デーロス同盟の一員としてアテーナイに味方しました。しかし、BC 413年にアテーナイとその同盟軍がシシリー島(当時の言い方では「シケリア島」)で大敗すると、アテーナイのエーゲ海東岸の支配はにわかに揺らぎ始めます。そこにペルシアの太守ティサペルネースから・・・・


5:クテーシアース

ペロポネーソス戦争はスパルタの勝利に終わります(BC 404)。クニドスはスパルタの支配下に置かれます。この頃のクニドス出身の人物としては、ペルシア王アルタクセルクセース2世の侍医をしていたクテーシアースという人物がいます。ペロポネーソス戦争が終結したまさにこの年、BC 404年にアルタクセルクセース2世は即位したのですが、彼の弟キューロスは自分のほうが兄よりも優秀であると自負し、また母親からもより可愛がられていたので、この王位継承に不満を持っていました。・・・・


6:エウドクソス

クテーシアースがペルシアの宮廷で活躍していた頃に生まれたと思われるクニドス人の中にエウドクソスがいます。エウドクソスの父アイスキネースは星を見ることに興味を持っていたそうで、幼いエウドクソスはその影響を受けました。彼は成人すると天文学者になったのでした。そして、各地で学問を修めたのちクニドスに戻り、そこに天文台を建てました。そして、人々に天文学と気象学と神学を教えました。天文学と気象学が一緒になっていることに違和感があるかもしれません。・・・・


7:「クニドスのアプロディーテー」と「クニドスのデーメーテール」

クニドスのアプロディーテーというのは、クニドスのアプロティーテーの神殿の中にあった大理石の神像のことです。古代ギリシア・ローマ世界で有名な彫像でしたが、残念ながら現存していません。その代わり古代に作られたいくつかのコピーが現存しています。神像の作者はBC 4世紀中頃に活躍したアテーナイの有名な彫刻家プラクシテレースでした。BC 4世紀中頃というと前回ご紹介したクニドスの天文学者エウドクソスが生涯を終えた頃です。AD 1世紀のローマの政治家・・・・


8:クニドス派の医学

クニドスから北に向って海を越えて20kmぐらいのところにあるコース島は、医聖と呼ばれたヒポクラテースの出身地であり、古代ギリシアの医療の中心地として有名でした。ここでの医療のやり方はコース派と呼ばれていました。この学派とは別のクニドス派と呼ばれる医療の学派がクニドスにありました。今回、クニドスを取り上げるにあたってクニドス派についても書こうと思って調べたのですが、コース派の対抗者としてクニドス派の名前と簡単な説明だけが出て来るのが大部分で・・・・


9:ソーストラトス

アレクサンドロス大王が急死したのち、彼の将軍だったプトレマイオス(1世)はエジプトを自分の勢力下に置くことに成功し、エジプト王に即位しました。彼の治世に首都アレクサンドリアの沖に高さ134mほどの、古代としては巨大な灯台が建設されました。なぜ高層の灯台が必要だったかと言えば、アレクサンドリア付近はナイル河のデルタ地帯であり、海上の船舶が遠くから港の位置を知るために地形を利用しようにも、山というものがなかったからです。かつて、この灯台には以下のような碑文が・・・・

アブデーラ(9):ヘカタイオス

アナクサルコスの弟子としてエーリスの人ピュローンが一緒にアレクナドロスの軍に従っていました。彼は従軍中に出会ったインド人の賢者から「アナクサルコスは自分では王の宮廷の世話をしているだけであり、他のだれひとり善き者に教育することは出来ない」という批評を聞きました。その批評に心を動かされたピュローンは遠征後は宮廷とは距離を置き、故郷のエーリスに戻って隠遁生活に入りました。ピュローンは懐疑派哲学の創始者として知られています。哲学史上では重要な人物ですが、アブデーラの人ではないので、ここではこれ以上は述べません。このピュローンの弟子のひとりにアブデーラの人がいました。名をヘカタイオスと言います。


アレクサンドロス大王の死後、アレクサンドロスの築いた帝国は後継者と呼ばれる有力な将軍たちの間で争われ、その結果、いくつかの国に分裂しました。その中でエジプトを領有したのがアレクサンドロスの幼少期からの友人であったプトレマイオスです。後世エジプト王プトレマイオス1世と呼ばれることになる人でした。ヘカタイオスはこの人の知遇を得ていたようで「エジプト史(アイギュプティアカ)」という大部の書物を著しています。つまり彼は歴史家でもあったのでした。もっと昔にも同じヘカタイオスという名前の歴史家がいたので、その人と区別するために彼のことを「アブデーラのヘカタイオス」と後世の人は呼んでいます。彼より昔のヘカタイオスは「ミーレートスのヘカタイオス」と呼ばれ、ミーレートスの人でした。この人は有名な歴史家ヘーロドトスより前の人で、ヘーロドトスが対抗心を燃やしていたと推測される人です。


(右:プトレマイオス1世)



(右:伝統的なエジプト王の姿をしたプトレマイオス1世)


「アブデーラのヘカタイオス」のほうに話を戻します。彼がプトレマイオス1世の知遇を得たことについては、師のピュローンの推薦があったかもしれません。ピュローンはアレクサンドロスの軍に従っていたので、その時にプトレマイオスの知遇を得たのかもしれません。プトレマイオスは優秀な将軍でもありましたが、人文科学にも興味を持ち、アレクサンドロスの死後、彼の伝記を執筆したことが記録されています。また彼は幾何学者エウクレイデス(英語読みのユークリッドの名で有名です)の後援者でもありました。さて、ヘカタイオスの「エジプト史(アイギュプティアカ)」の内容についてですが、この書物は現存していません。しかしその内容は、ディオドーロス・シクロスの「歴史叢書」に引用されているために、ある程度推測可能とのことです。


ヘレニズム概念と古代史家(一) 田中穂積著」によれば、彼の「エジプト史」の内容は、古代エジプトを理想視するようなものだったといいます。それは、ヘカタイオスがインタビューしたエジプトの神官たちのナショナリズムの影響を受けたためであろう、と田中穂積氏は述べておられます。そして、エジプトの伝統を擁護するヘカタイオスの執筆姿勢について「そこにはエジプト支配に臨んだプトレマイオス1世に対して、エジプトの伝統を踏襲すべきことを示唆したとする見方、さらには、この王のギリシア優遇政策に対する批判が込められているとする見方などが考えられる。」と推測されているのが興味深いです。アレクサンドロスの征服を引き継いだプトレマイオス1世によるエジプト支配は、要するにギリシア人によるエジプト支配でした。そのため、当然その統治運営においてはギリシア人優遇策がありました。それに対してヘカタイオスが異議を唱えたという見方は、現実性のある見方だと思いました。こうしてみると、ヘカタイオスは出来たばかりのプトレマイオス朝エジプトにおいて、ギリシア人とエジプト人の融和のために努力した人とみることが出来そうです。


英語版のWikipediaの「アブデーラのヘカタイオス」の項によれば、ヘカタイオスの著作にはこの他に、神話上の北の果ての民族であるピュペルボレオス人についての著作や、古代の詩人であるホーメロスとヘーシオドスについての論文もあったそうです。


さて、ヘレニズム時代まで下ってきましたので、これで私のアブデーラについての話を終わりにします。


ところで、今まで見て来たようにアブデーラは多くの哲学者を輩出しているのですが、古代ギリシア・ローマではアブデーラはなぜか「馬鹿者」の代名詞でした。日本語のウィキペディアの「アブデラ」の項にも

アテナイでは、ことわざで「アブデラの雰囲気」は「愚かなことをすること」を意味したが、実際は哲学者のデモクリトスや歴史家・懐疑主義哲学者のヘカタエオスなどの有名な人物をアブデラは輩出している。

とあります。なぜ、アブデーラが「馬鹿者の代名詞」になったのか、私は知りたかったのですが、今回調べても分かりませんでした。

アブデーラ(8):アナクサルコス

さて、デーモクリトスが亡くなった頃からアブデーラの地位は低下し始めました。アブデーラはBC 376年、北方のトリバリ人による略奪を受けました。BC 350年にはマケドニア王国のピリッポス2世の攻撃を受け、その支配下に入りました。このピリッポス2世の息子が有名なアレクサンドロス大王です。


旧ペルシア王国領を進撃するアレクサンドロス大王随行した哲学者のなかに、アブデーラ出身のアナクサルコスがいます。彼の師匠はキオスのメトロドロスであり、このメトドドロスはデーモクリトスの弟子だったと伝えられています。ということはアナクサルコスはデーモクリトスの孫弟子にあたることになります。デーモクリトスがエジプトやペルシア、インドまで行って賢者を求めたという伝承がありますが、アナクサルコスがアレクサンドロスに従ったのもデーモクリトスに影響されてインドまで行こうとしてなのかもしれません。アナクサルコスは実際にインド人の賢者に出会ったという伝えもあります。


さてアレクサンドロスは、征服を進めていくうちにギリシア人、マケドニア人の風習を段々捨てていき、ペルシア風の習慣を身につけて、自分を神の子とし、自分に対して跪拝の礼をとることを要求し始めました。このアレクサンドロスの自己神格化に対しては従軍しているギリシア人から反発がありましたが、これにからんでのアナクサルコスの逸話があります。ところがその逸話の中にはアレクサンドロスの神格化に迎合するような内容のものと、神格化の虚偽を指摘するような内容のものの両方があり、アナクサルコスの真意がどうだったのか、私には判断出来ません。

(上:アレクサンドロス大王


アレクサンドロスの自己神格化を否定するような逸話は次のようなものです。

アナクサルコスはアレクサンドロスがその身体の傷から出血しているのを指して彼に言った。「死すべき者の血を見て下さい。それは不死の神々の血管からながれるイコール(神血)ではありません。」

また、こういうのもあります。

アレクサンドロスが医者からスープを処方された時にアナクサルコスはそれを見て笑って言った。「我らが神の希望はスープのお椀の中にある。」


一方、アレクサンドロスの自己神格化に迎合するような内容の逸話をプルータルコスが伝えています。


ある酒宴の席でアレクサンドロスは、彼に不満をぶつけた部下のクレイトスを怒りに任せて殺してしまいました。アレクサンドロスはすぐに後悔して自分も死のうとしたのですが、親衛兵たちがその手を抑えて止めさせたのでした。アレクサンドロスが後悔のあまり翌日も自分の部屋から出てこないので、周りの人々は心配して従軍していた2人の哲学者をアレクサンドロスの部屋に送り込みました。

 そこで人々はアリストテレスの親戚の哲学者カリステネスとアブデラの人アナクサルコスを連れて来た。この二人のうちカリステネスは倫理学に基いて説得し、理を説いてほのめかしながら巧みに話し、遠まわりをして苦しみを与えないで悲しみを去らせようとしたが、アナクサルコスは哲学において独特の道を歩み、朋輩を無視、軽視するという評判をとった人で、はいって来るなり、すぐ大声をあげて次のように言った。「これが今世界が見つめているアレクサンドロスだ。それが今奴隷のように身を投げ出して涙を流し、人間の法律や非難を恐れておられる。勝利の末、支配と権力とを握られたのだから、御自分こそ人間の法律となり、正義の基準となるべきで、あだな世評に屈して奴隷となることはないのです。」そしてさらに言った。「(中略)権力を持つものによって行われたことはすべて、人の法によっても神の法によっても認められた、正しいものであるということがおわかりにならないのですか。」アナクサルコスはこのような論法で王の悲しみを軽くした。


プルータルコス「アレクサンドロス伝」52 井上一訳より

AD 2世紀の歴史家アッリアノスはその著「アレクサンドロス東征記」のなかで同様の逸話を記し、アナクサルコスは、お追従から彼に神格化をそそのかす連中のなかでも目立った人物であり、こういう言葉によってアレクサンドロスに対して害をなしたのだ、と述べています。


しかし、アナクサルコスの最期の様子と伝えられるものからは、阿諛追従の徒のような様子は見えません。むしろ、その信念の強さが伺われます。


(左:キュプロスの都市サラミースの王 ニコクレオン)

あるとき宴席でアレクサンドロス大王から「この料理はどうだ」と訊かれて、彼は「陛下、何もかもけっこうなものでございます。しかしただ一つだけ不足なものがございます。ある知事の頭が出されていましたら、と存じますが」と答えた。この言葉はペルシアの総督ニコクレオンのことを暗示したものだった。ニコクレオンはこれを聞いて、遺恨骨髄に徹したというか、いつまでも忘れなかった。大王の死後、アナクサルコスは航海中その意に反してキュプロス島に連れていかれた。そこでニコクレオンは彼を捕え、石臼に投げ込み鉄の杵で搗(つ)き砕けと命じた。しかしアナクサルコスはこのような残酷な処刑を少しも恐れないで、「アナクサルコスの皮を剥げ、しかしアナクサルコスは剥げないぞ」と叫んだ。すると、ニコクレオンはその舌を切り取れとさらに命じた。彼はひと手を待たず、みずから舌を嚙み切って、それをニコクレオンに吐きかけた、という。


山本光雄著「ギリシア・ローマ哲学者物語」より

アブデーラ(7):デーモクリトス(2)

彼はいわば物理学者の遠い祖先のような人ですが、その他のさまざまな学問も研究していました。彼の著作の範囲は広く、それらは倫理学関係、自然科学関係、数学関係、文芸・音楽関係、技術関係の著作に分類出来るとディオゲネース・ラーエルティオスは伝えています。人生論的な見解として彼はこんな見解を持っていました。

「快活さ」(エウテュミアー)が人生の終局目的であるが、これは、一部の人たちが聞き間違えて受けとったように、快楽と同じものではなく、いかなる恐怖や、迷信や、その他何らかの情念によっても乱されないで、魂がそれによって穏やかに落ちついた状態で時を過すことになるもののことである。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第9巻第7章「デモクリトス」より

このあたり、約120年後に現れる哲学者エピクーロスと似た見解だと思いました。「快活さ」に関連した話ですが、彼自身が快活な性格だったので「笑う人」とか「笑う哲学者」とか呼ばれていました。


(左:アブデーラのコイン)


彼が非常に観察眼の鋭い人であったという逸話もあります。当時の有名な医者であったヒポクラテースが彼の家を訪問した時のことです。

ヒッポクラテスが彼のところへ訪ねてきたときに、彼はミルクを持ってくるように頼んでおいた。そして、持ってきたミルクを彼は眺めた上で、これは初子を産んだ黒色の雌山羊のものだろうと言った。それで、彼の観察の正確さに、ヒッポクラテスは驚嘆したのだった。


同上


デーモクリトスが亡くなる時の様子は次のように伝えられています。

デモクリトスの最後の模様は次のようなものであったと、ヘルミッポスは伝えている。すなわち、彼はすでにもうたいへんな高齢になっていて、死期も近い状態にあった。それで彼の妹は、テスモポリア祭の期間に彼が死んでしまいそうであり、そうなると、自分は女神に対して果すべき務めを果せないでしまうことになるだろうと悩んでいた。


同上

テスモポリア祭というのは農業の女神デーメーテールのためのお祭で、これは男子禁制の女性だけで執り行われる祭事で、当時その祭事は重要なものと考えられていました。それでデーモクリトスの妹はそのことを心配していたのです。

そこで彼は、心配しないようにと妹に言い、毎日、温いパンを自分のところに持ってくるように命じた。そうして彼は、この温いパンを自分の鼻の上にあてがいながら、その祭の期間、自分を持ちこたえさせたのだった。しかし、祭の期間――それは三日間であったが――その期間が過ぎると、彼は苦しむことなしにこの世を去ったのである。


同上

彼はパンの匂いを嗅ぐことで気力を保ったということです。もしこの話が本当だとすると、原子論者であった彼も当時の信仰を尊重する姿勢を持っていたということになりそうです。


さて、私には信じがたい話ですが、デーモクリトスよりさらに30歳ほど若い、有名な哲学者プラトーンが、デーモクリトスの書物を燃やしてしまおうとした、という話をディーオゲネース・ラーエルティオスは記しています。

プラトンがそうしようとしたのは明らかである。なぜなら、プラトンは、昔の哲学者たちのほとんどすべての人に言及しているのに、デモクリトスには一度もはっきりと言及していないばかりか、デモクリトスに対して何らかの反論をする必要がある場合にさえも、言及していないからである。それというのも、明らかにプラトンは、哲学者たちのなかでもっともすぐれた者になろうとすれば、デモクリトスが自分にとっての競争者となるだろうということをよく知っていたからなのである。


同上

デーモクリトスが競争者になるからといって偉大な思想家のプラトーンが、その書物を焼くというセコいことをするものでしょうか? 一方で、プラトーンが書物のどこにもデーモクリトスについて言及していない、というのは本当のように思えます(それほど読んではいませんが・・・・)。とても気になる記述です。

アブデーラ(6):デーモクリトス(1)

前回ご紹介したプロータゴラースが、諸国を遍歴し、アテーナイにも逗留して、人々に知識を教えていたのに対して、彼より約30年あとにアブデーラに生まれたデーモクリトスは、プロータゴラースと同じ哲学者ではありましたが、アテーナイに滞在したことはなく、もっぱらアブデーラに住んでいたようです。

パレロンのデメトリオスは「ソクラテス弁護」のなかで、デモクリトスアテナイを訪れることさえしなかったと述べている。そしてこのことは、もしも彼があれほどの大国を無視したのだとすると、自分はその国よりももっと偉大なのだと考えていたということでもある。なぜなら彼は、ある場所から名声を得ることを望まないで、むしろ、ある場所に名声を与えることの方を選んだからである。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第9巻第7章「デモクリトス」より


かといって生涯に渡ってずっとアブデーラにいたわけではなく、若い時には知識を求めてエジプトやペルシアに旅行し、それぞれの土地で学識者と思われる人々に教えを乞うたのでした。

デモクリトスは、神官たちのもとで幾何学を学ぼうとしてエジプトへも旅行したし、またカルダイオイ人たちに会うためにペルシアへも、さらには、紅海へも出かけたとのことである。また、ある人たちによれば、彼はインドで裸の行者たちとも交わりを結んだし、エチオピアへも行ったとのことである。


同上

(左:デーモクリトス)


こうして当時の世界から広く知識を吸収し、またギリシア人レウキッポスの弟子となって、古代ギリシアの原子論を確立したのでした。すなわち万物は「分割不可能な原子」と「空虚」から出来ており、万物の変化を「原子」の結合や分離、配置の変化によって説明するものでした。もっともこの原子論は師匠のレウキッポスが確立したものだとも言われていますが、あいにくレウキッポスについて現代まで伝わっている情報は少なく、デーモクリトスの学説のうちどこまでがレウキッポスの説を引き継いだもので、どこがデーモクリトスの独創によるものかは、よく分かっていないそうです。

デーモクリトスは兄弟たちと分けた父親の遺産を使って、上記の旅行を実行し、その旅行で遺産を使い切ってしまいました。

彼は旅行から帰ってくると、全財産を使い果たしてしまっていたので、きわめて貧しい状態で暮らしていた。そして困窮していたために、兄のダマソスによって養われていた。しかし彼は、ある未来の出来事を予言したために高い評判をえたので、その後は、非常に多くの人たちから、神にふさわしい栄誉を受けるに価する者とみなされたのだった。しかしながら、父祖伝来の財産を蕩尽した者は祖国に埋葬される資格はないという法律があったので(中略)彼はそのことに気づくと、誰か妬み深い人たちや密告者連中によって訴えられるのではないかと恐れて、自分の全著作のなかでも一番の傑作である「大宇宙体系」を人びとの前で読み上げた。そしてその作品によって、彼は五百タラントンの報酬をえたのであるが、その上に、銅像も建ててもらったのである。


同上

これで、デーモクリトスは「父祖伝来の財産を蕩尽した者」とは見なされなくなりました。


彼はBC 460年頃に生まれ、BC 370年頃に亡くなったと推定されていますが、彼の活躍した時代はギリシア世界の大部分を巻き込んだペロポネーソス戦争(BC 431年~404年)の期間を含んでいます。アブデーラはデーロス同盟に属していたのでアテーナイ側で戦っていましたが、戦争末期(BC 407年)にはアテーナイに対して反乱し、アテーナイからの派遣軍によって鎮圧されています。しかし、彼の生涯を調べていても、ペロポネーソス戦争下におけるアブデーラでの出来事についての情報は見つかりませんでした。

アブデーラ(5):プロータゴラース

前回の最後で、ペルシア王クセルクセースが敗戦に直面してアテーナイから一目散に母国に逃げ帰る際、アブデーラに滞留したことをお話ししました。ディオゲネース・ラーエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の「デーモクリトス」の章では、この時に、アブデーラ人であったデーモクリトスの父親がペルシア王クセルクセースを歓待した、という話を記しています。これに感謝した王はデーモクリトスの父親の指南役としてマゴス僧(古代ペルシアの宗教者)たちやカルデア人(古代バビロニア人。天文学占星術に通じていた)を残しておいた、といいます。そして、息子のデーモクリトスは少年時代にこれらの人々から神学や天文学を学んだ、ということです。しかし、デーモクリトスはこの時よりも約20年あとに誕生しているので、この話は年代に無理があります。年代的にはこの話はむしろ同じアブデーラ出身の哲学者プロータゴラースにふさわしいものです。彼はこの時、10歳ぐらいでした。


プロータゴラースの父親が敗戦の将クセルクセースを歓待したかどうかは分かりませんが、プロータゴラースはギリシア本土に向かうペルシアの大軍を見たことでしょうし、敗戦ののち逃げて帰るクセルクセースの一行も見たことでしょう。やがてギリシア諸国の連合軍は、ペルシアの勢力をエーゲ海の東と西で同時に南から北へ駆逐していきます。アブデーラもペルシアの支配から抜け、今度はアテーナイが盟主となって組織するデーロス同盟に参加するようになります。英語版のWikipediaの「アブデーラ」の項によれば、当時のアブデーラはデーロス同盟内で3番目に裕福であった、ということです。トラーキア地方の主要港としての位置を占めていたからでした。


さて、プロータゴラースは自分のことを「智者」と自称していました。そしてその知恵を、人に教えるのに報酬を取ることを正当と考えた初めてした人であると言われています。つまり、教師の元祖のような人です。それではどんなことを教えていたかというと、「自分の事柄についての適切な管理、自分の家計の最善の運営、そして公けのことについての管理、言葉と行動によって町の運営に対して最も効果的な貢献をするやり方」なのでした。つまりは実用的な知恵なのでした。といことは、現代で言えば自己啓発本を出している人たちの元祖でもあったことになります。彼は諸国(ここで諸国というのはギリシアの諸都市のことです。当時は都市国家の時代でした。)を遍歴して、各地でその知恵を教授しました。そして、彼が滞在した諸国では彼の追っかけが発生し、彼の遍歴に従っていたようです。哲学者プラトーンの著作「プロータゴラース」には、アテーナイにやってきたプロータゴラースに、諸国からの「追っかけ」が従っていた様子が描かれています。

そのまたうしろから、話に傾聴しながら随っている人々は、多くはよその都市の者と見うけられた。これらの人たちをプロタゴラスは、あたかもオルペウス*1のように、その語る声をもって魅惑しつつ、彼の遍歴の足どりが通過した国また国から、いざない連れて来ているのであり、他方魅力のとりこになった彼らは、その声の聞こえるほうへとつきしたがっているわけなのだ。しかしこの土地(=アテーナイ)の者もいくらかは、この舞踏隊に加わっていた。


プラトーン作「プロータゴラース」藤沢令夫訳 より

また、アテーナイでもプロータゴラースが有名人だったことは、同じプラトーンの「プロータゴラース」の以下の叙述からも感じられます。(以下の訳で「仲間」という言葉はちょっとこなれていませんが、要するにソークラテースの仲間の一人、ということです。)

仲間
おやそれでは、ソクラテス、君はここに来る前に、誰か智者に出あってきたというわけなのかね。


ソクラテス
智者も智者、当代随一の智者だ――もしプロタゴラスが最高の智者であることに、君が賛成ならね。


仲間
え、なんだって? プロタゴラスアテナイに来ているのだって?


ソクラテス
もう三日になるよ。


仲間
すると、君はいま、ここに来るまであの人といっしょにいたわけなのか?


ソクラテス
そうとも。いろいろとたくさんのことを、話したり聞いたりしてね。


同上

このように彼の人気は大したものでした。その上、彼は弁論術も教えていました。ディベート(言論の競技)というものを創始したのも彼だと伝えられています。これらこそ、民主制が発展しつつある当時のアテーナイのニーズにマッチしたものでした。多くの人々が民会で自分の意見により多くの賛同者を得るために、言論の力を欲していたからです。当時のアテーナイの偉大な政治家ペリクレースもプロータゴラースと親交を持っていました。


プロータゴラースの中心的な信条は「万物の尺度は人間である」というものであるとされています。たとえば、ある人には風は温かく感じられても、別の人には冷たく感じられるかもしれない。よって、風そのものが温かいのか冷たいのかという問いには答えがない、各人の感じ方がそれぞれに真実である、というものです。しかしこの主張を突き詰めていくと万人共通の真実なるものは存在しない、ということになってしまいます。実際のところ、プロータゴラースがそこまで主張していたのか、それともこのような相対的な考え方を人間に関わることだけに限定していたのか、については議論があるようです。というのは彼の著作のわずかな断片しか、現代には伝えられていないからです。


さてディオゲネース・ラーエルティオスによれば、ペリクレースが亡くなったあとのことですが、彼のある著作がアテーナイで不敬罪のかどで告発されました。その著作には次のように書かれていました。

また別の書物では、彼は次のように書き始めたのだった。「神々については、それらが存在するということも、存在しないということも、わたしは知ることができない。なぜなら、それを知ることを妨げるものが数多くあるのだから。事柄が不明確であるのに加えて、人生は短いのだから」と。
ところで、その書物のこの冒頭の言葉のゆえに、彼はアテナイから追放されたのだった。そしてアテナイ人たちは触れ役に命じて、彼の書物を所有者の一人ひとりから取り上げさせて、広場で焼却してしまったのである。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第8巻第8章「プロタゴラス」より

アテーナイから追放されたことは痛手であったかもしれませんが、諸国遍歴の身でしたから何とかなったことでしょう。


プロータゴラースについてはまた、イタリア南部のギリシア人都市トゥリオイの法律を起草した、とも伝えられています。彼は30歳のときから智者(=ソフィスト)と名乗り、それから40年間、諸国で人々に教え、70歳で没したということです。

*1:神話上の音楽家。彼が竪琴を弾くと、森の動物たちばかりでなく、心のないはずの木々や岩までもが彼の周りに集まってその音色に耳を傾けたという。

アブデーラ(4):クセルクセース王の接待


ダーレイオス王の次のクセルクセース王の時、BC 480年にペルシアはギリシア本土を攻めるために海陸の大軍を組織し、王自らが軍を率いてギリシア本土に向いました。この時、アブデーラはその進路上にありました。そしてこの大軍が通過する際にアブデーラはその食事の用意を命ぜられて大変な苦難を強いられたのでした。

 遠征軍を迎えクセルクセス王の食事の接待に当ったギリシア人の蒙った苦難は悲惨を極めたもので、そのために住み馴れた家屋敷も離れねばならぬほどであった・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻7、118 から


(上:ペルシア王の親衛隊)


それでは、どういう目にあったのかと言いますと、

市民たちはクセルクセスの通過を諸方に触れて廻る役人からそのことを聞き知ると、町にある穀物を皆に分配し、市民は一人残らず幾カ月もかけて小麦と大麦を粉にひく。一方ではまた軍隊受入れのために、できるだけ上等の家畜を高価な代金を払って入手し飼育するとともに、陸棲と水棲とを問わずさまざまの鳥類を檻や池で養ったのである。また金銀製の酒盃や混酒鉢、その他食卓に用いる什器一切をととのえたのである。ただしこれらの什器は王とその陪食者たちだけのために作られたもので、軍隊一般には食糧にあてる物資だけが用意された。軍勢が到着すると、クセルクセスの宿営所にあてる天幕がすでに設けられているのが常で、一般の将兵は露天で野営したのである。食事の時刻になると、もてなす側は天手古舞いをするが、もてなされる方は鱈腹平らげるとその場で一夜を明かし、翌日になると天幕を畳み、持ち運べる什器はことごとく携え、後には一物も残さず綺麗にさらいとって立ち去るのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、119 から


さて

このような状況の下で、アブデラ人のメガクレオンという男が、実に適切な言葉を吐いた。


ヘロドトス著「歴史」巻7、120 から

のだそうです。

彼はアブデラの市民たちに、男も女も町中総出でもよりの神殿に詣で、今後とも来たるべき災難の半ばを免れさせ給えと神助を乞い、過ぎ去ったばかりの災厄については、クセルクセスが日に食事を二回とる習慣ではなかったことを、神々に深く感謝するようにとすすめたのである。かりにアブデラ人が夕食と同様に朝食の用意まで命ぜられていたならば、彼らとしてはクセルクセスの到来を待つことをせぬか、それとも踏み留まってこの世に例のないほどの悲惨な目に遭うかのいずれかを選ぶほかなかったであろうから、というのである。


同上

この言葉から、アブデーラ市民の苦労を感じ取ることが出来ます。しかし「クセルクセスが日に食事を二回とる習慣ではなかったことを、神々に深く感謝するように」という言葉には疑問を感じます。ペルシア軍将兵は1日に1回しか食事をしなかったのでしょうか? 私は、日に3回食事をするのは割と最近のことで、昔は日に2回が普通だった、というのを聞いたことはあります。しかし古代ペルシアでは食事の回数は日に1回だったのでしょうか? それもこれから戦争をしようとする将兵が、そうだったのでしょうか?。ちょっと信じられません。


さてこのあと、この大軍はアテーナイ沖でギリシア諸国の連合軍に惨敗し、クセルクセースは急いで母国に逃げ帰ります。この時も彼はアブデーラに滞留しています。ただし、もはや大軍はなく、クセルクセースにはわずかな部隊のみが従っていました。

アブデラ人のいうところでは――私にはとうてい信ずることができないが――王はアテナイから敗退して以来、この地へきてようやく安堵しはじめて帯をほどいたという。


ヘロドトス著「歴史」巻8、120 から

アブデーラまで来てクセルクセースが始めて安心したということは、それだけアブデーラの忠誠にクセルクセースは信を置いていた、ということなのでしょう。