アナクサルコスの弟子としてエーリスの人ピュローンが一緒にアレクナドロスの軍に従っていました。彼は従軍中に出会ったインド人の賢者から「アナクサルコスは自分では王の宮廷の世話をしているだけであり、他のだれひとり善き者に教育することは出来ない」という批評を聞きました。その批評に心を動かされたピュローンは遠征後は宮廷とは距離を置き、故郷のエーリスに戻って隠遁生活に入りました。ピュローンは懐疑派哲学の創始者として知られています。哲学史上では重要な人物ですが、アブデーラの人ではないので、ここではこれ以上は述べません。このピュローンの弟子のひとりにアブデーラの人がいました。名をヘカタイオスと言います。
アレクサンドロス大王の死後、アレクサンドロスの築いた帝国は後継者と呼ばれる有力な将軍たちの間で争われ、その結果、いくつかの国に分裂しました。その中でエジプトを領有したのがアレクサンドロスの幼少期からの友人であったプトレマイオスです。後世エジプト王プトレマイオス1世と呼ばれることになる人でした。ヘカタイオスはこの人の知遇を得ていたようで「エジプト史(アイギュプティアカ)」という大部の書物を著しています。つまり彼は歴史家でもあったのでした。もっと昔にも同じヘカタイオスという名前の歴史家がいたので、その人と区別するために彼のことを「アブデーラのヘカタイオス」と後世の人は呼んでいます。彼より昔のヘカタイオスは「ミーレートスのヘカタイオス」と呼ばれ、ミーレートスの人でした。この人は有名な歴史家ヘーロドトスより前の人で、ヘーロドトスが対抗心を燃やしていたと推測される人です。
(右:プトレマイオス1世)
(右:伝統的なエジプト王の姿をしたプトレマイオス1世)
「アブデーラのヘカタイオス」のほうに話を戻します。彼がプトレマイオス1世の知遇を得たことについては、師のピュローンの推薦があったかもしれません。ピュローンはアレクサンドロスの軍に従っていたので、その時にプトレマイオスの知遇を得たのかもしれません。プトレマイオスは優秀な将軍でもありましたが、人文科学にも興味を持ち、アレクサンドロスの死後、彼の伝記を執筆したことが記録されています。また彼は幾何学者エウクレイデス(英語読みのユークリッドの名で有名です)の後援者でもありました。さて、ヘカタイオスの「エジプト史(アイギュプティアカ)」の内容についてですが、この書物は現存していません。しかしその内容は、ディオドーロス・シクロスの「歴史叢書」に引用されているために、ある程度推測可能とのことです。
「ヘレニズム概念と古代史家(一) 田中穂積著」によれば、彼の「エジプト史」の内容は、古代エジプトを理想視するようなものだったといいます。それは、ヘカタイオスがインタビューしたエジプトの神官たちのナショナリズムの影響を受けたためであろう、と田中穂積氏は述べておられます。そして、エジプトの伝統を擁護するヘカタイオスの執筆姿勢について「そこにはエジプト支配に臨んだプトレマイオス1世に対して、エジプトの伝統を踏襲すべきことを示唆したとする見方、さらには、この王のギリシア人優遇政策に対する批判が込められているとする見方などが考えられる。」と推測されているのが興味深いです。アレクサンドロスの征服を引き継いだプトレマイオス1世によるエジプト支配は、要するにギリシア人によるエジプト支配でした。そのため、当然その統治運営においてはギリシア人優遇策がありました。それに対してヘカタイオスが異議を唱えたという見方は、現実性のある見方だと思いました。こうしてみると、ヘカタイオスは出来たばかりのプトレマイオス朝エジプトにおいて、ギリシア人とエジプト人の融和のために努力した人とみることが出来そうです。
英語版のWikipediaの「アブデーラのヘカタイオス」の項によれば、ヘカタイオスの著作にはこの他に、神話上の北の果ての民族であるピュペルボレオス人についての著作や、古代の詩人であるホーメロスとヘーシオドスについての論文もあったそうです。
さて、ヘレニズム時代まで下ってきましたので、これで私のアブデーラについての話を終わりにします。
ところで、今まで見て来たようにアブデーラは多くの哲学者を輩出しているのですが、古代ギリシア・ローマではアブデーラはなぜか「馬鹿者」の代名詞でした。日本語のウィキペディアの「アブデラ」の項にも
アテナイでは、ことわざで「アブデラの雰囲気」は「愚かなことをすること」を意味したが、実際は哲学者のデモクリトスや歴史家・懐疑主義哲学者のヘカタエオスなどの有名な人物をアブデラは輩出している。
とあります。なぜ、アブデーラが「馬鹿者の代名詞」になったのか、私は知りたかったのですが、今回調べても分かりませんでした。