前回の最後で、ペルシア王クセルクセースが敗戦に直面してアテーナイから一目散に母国に逃げ帰る際、アブデーラに滞留したことをお話ししました。ディオゲネース・ラーエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」の「デーモクリトス」の章では、この時に、アブデーラ人であったデーモクリトスの父親がペルシア王クセルクセースを歓待した、という話を記しています。これに感謝した王はデーモクリトスの父親の指南役としてマゴス僧(古代ペルシアの宗教者)たちやカルデア人(古代バビロニア人。天文学と占星術に通じていた)を残しておいた、といいます。そして、息子のデーモクリトスは少年時代にこれらの人々から神学や天文学を学んだ、ということです。しかし、デーモクリトスはこの時よりも約20年あとに誕生しているので、この話は年代に無理があります。年代的にはこの話はむしろ同じアブデーラ出身の哲学者プロータゴラースにふさわしいものです。彼はこの時、10歳ぐらいでした。
プロータゴラースの父親が敗戦の将クセルクセースを歓待したかどうかは分かりませんが、プロータゴラースはギリシア本土に向かうペルシアの大軍を見たことでしょうし、敗戦ののち逃げて帰るクセルクセースの一行も見たことでしょう。やがてギリシア諸国の連合軍は、ペルシアの勢力をエーゲ海の東と西で同時に南から北へ駆逐していきます。アブデーラもペルシアの支配から抜け、今度はアテーナイが盟主となって組織するデーロス同盟に参加するようになります。英語版のWikipediaの「アブデーラ」の項によれば、当時のアブデーラはデーロス同盟内で3番目に裕福であった、ということです。トラーキア地方の主要港としての位置を占めていたからでした。
さて、プロータゴラースは自分のことを「智者」と自称していました。そしてその知恵を、人に教えるのに報酬を取ることを正当と考えた初めてした人であると言われています。つまり、教師の元祖のような人です。それではどんなことを教えていたかというと、「自分の事柄についての適切な管理、自分の家計の最善の運営、そして公けのことについての管理、言葉と行動によって町の運営に対して最も効果的な貢献をするやり方」なのでした。つまりは実用的な知恵なのでした。といことは、現代で言えば自己啓発本を出している人たちの元祖でもあったことになります。彼は諸国(ここで諸国というのはギリシアの諸都市のことです。当時は都市国家の時代でした。)を遍歴して、各地でその知恵を教授しました。そして、彼が滞在した諸国では彼の追っかけが発生し、彼の遍歴に従っていたようです。哲学者プラトーンの著作「プロータゴラース」には、アテーナイにやってきたプロータゴラースに、諸国からの「追っかけ」が従っていた様子が描かれています。
そのまたうしろから、話に傾聴しながら随っている人々は、多くはよその都市の者と見うけられた。これらの人たちをプロタゴラスは、あたかもオルペウス*1のように、その語る声をもって魅惑しつつ、彼の遍歴の足どりが通過した国また国から、いざない連れて来ているのであり、他方魅力のとりこになった彼らは、その声の聞こえるほうへとつきしたがっているわけなのだ。しかしこの土地(=アテーナイ)の者もいくらかは、この舞踏隊に加わっていた。
プラトーン作「プロータゴラース」藤沢令夫訳 より
また、アテーナイでもプロータゴラースが有名人だったことは、同じプラトーンの「プロータゴラース」の以下の叙述からも感じられます。(以下の訳で「仲間」という言葉はちょっとこなれていませんが、要するにソークラテースの仲間の一人、ということです。)
仲間
おやそれでは、ソクラテス、君はここに来る前に、誰か智者に出あってきたというわけなのかね。
ソクラテス
智者も智者、当代随一の智者だ――もしプロタゴラスが最高の智者であることに、君が賛成ならね。
仲間
え、なんだって? プロタゴラスがアテナイに来ているのだって?
ソクラテス
もう三日になるよ。
仲間
すると、君はいま、ここに来るまであの人といっしょにいたわけなのか?
ソクラテス
そうとも。いろいろとたくさんのことを、話したり聞いたりしてね。
同上
このように彼の人気は大したものでした。その上、彼は弁論術も教えていました。ディベート(言論の競技)というものを創始したのも彼だと伝えられています。これらこそ、民主制が発展しつつある当時のアテーナイのニーズにマッチしたものでした。多くの人々が民会で自分の意見により多くの賛同者を得るために、言論の力を欲していたからです。当時のアテーナイの偉大な政治家ペリクレースもプロータゴラースと親交を持っていました。
プロータゴラースの中心的な信条は「万物の尺度は人間である」というものであるとされています。たとえば、ある人には風は温かく感じられても、別の人には冷たく感じられるかもしれない。よって、風そのものが温かいのか冷たいのかという問いには答えがない、各人の感じ方がそれぞれに真実である、というものです。しかしこの主張を突き詰めていくと万人共通の真実なるものは存在しない、ということになってしまいます。実際のところ、プロータゴラースがそこまで主張していたのか、それともこのような相対的な考え方を人間に関わることだけに限定していたのか、については議論があるようです。というのは彼の著作のわずかな断片しか、現代には伝えられていないからです。
さてディオゲネース・ラーエルティオスによれば、ペリクレースが亡くなったあとのことですが、彼のある著作がアテーナイで不敬罪のかどで告発されました。その著作には次のように書かれていました。
また別の書物では、彼は次のように書き始めたのだった。「神々については、それらが存在するということも、存在しないということも、わたしは知ることができない。なぜなら、それを知ることを妨げるものが数多くあるのだから。事柄が不明確であるのに加えて、人生は短いのだから」と。
ところで、その書物のこの冒頭の言葉のゆえに、彼はアテナイから追放されたのだった。そしてアテナイ人たちは触れ役に命じて、彼の書物を所有者の一人ひとりから取り上げさせて、広場で焼却してしまったのである。
アテーナイから追放されたことは痛手であったかもしれませんが、諸国遍歴の身でしたから何とかなったことでしょう。
プロータゴラースについてはまた、イタリア南部のギリシア人都市トゥリオイの法律を起草した、とも伝えられています。彼は30歳のときから智者(=ソフィスト)と名乗り、それから40年間、諸国で人々に教え、70歳で没したということです。