神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アブデーラ(6):デーモクリトス(1)

前回ご紹介したプロータゴラースが、諸国を遍歴し、アテーナイにも逗留して、人々に知識を教えていたのに対して、彼より約30年あとにアブデーラに生まれたデーモクリトスは、プロータゴラースと同じ哲学者ではありましたが、アテーナイに滞在したことはなく、もっぱらアブデーラに住んでいたようです。

パレロンのデメトリオスは「ソクラテス弁護」のなかで、デモクリトスアテナイを訪れることさえしなかったと述べている。そしてこのことは、もしも彼があれほどの大国を無視したのだとすると、自分はその国よりももっと偉大なのだと考えていたということでもある。なぜなら彼は、ある場所から名声を得ることを望まないで、むしろ、ある場所に名声を与えることの方を選んだからである。


ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第9巻第7章「デモクリトス」より


かといって生涯に渡ってずっとアブデーラにいたわけではなく、若い時には知識を求めてエジプトやペルシアに旅行し、それぞれの土地で学識者と思われる人々に教えを乞うたのでした。

デモクリトスは、神官たちのもとで幾何学を学ぼうとしてエジプトへも旅行したし、またカルダイオイ人たちに会うためにペルシアへも、さらには、紅海へも出かけたとのことである。また、ある人たちによれば、彼はインドで裸の行者たちとも交わりを結んだし、エチオピアへも行ったとのことである。


同上

(左:デーモクリトス)


こうして当時の世界から広く知識を吸収し、またギリシア人レウキッポスの弟子となって、古代ギリシアの原子論を確立したのでした。すなわち万物は「分割不可能な原子」と「空虚」から出来ており、万物の変化を「原子」の結合や分離、配置の変化によって説明するものでした。もっともこの原子論は師匠のレウキッポスが確立したものだとも言われていますが、あいにくレウキッポスについて現代まで伝わっている情報は少なく、デーモクリトスの学説のうちどこまでがレウキッポスの説を引き継いだもので、どこがデーモクリトスの独創によるものかは、よく分かっていないそうです。

デーモクリトスは兄弟たちと分けた父親の遺産を使って、上記の旅行を実行し、その旅行で遺産を使い切ってしまいました。

彼は旅行から帰ってくると、全財産を使い果たしてしまっていたので、きわめて貧しい状態で暮らしていた。そして困窮していたために、兄のダマソスによって養われていた。しかし彼は、ある未来の出来事を予言したために高い評判をえたので、その後は、非常に多くの人たちから、神にふさわしい栄誉を受けるに価する者とみなされたのだった。しかしながら、父祖伝来の財産を蕩尽した者は祖国に埋葬される資格はないという法律があったので(中略)彼はそのことに気づくと、誰か妬み深い人たちや密告者連中によって訴えられるのではないかと恐れて、自分の全著作のなかでも一番の傑作である「大宇宙体系」を人びとの前で読み上げた。そしてその作品によって、彼は五百タラントンの報酬をえたのであるが、その上に、銅像も建ててもらったのである。


同上

これで、デーモクリトスは「父祖伝来の財産を蕩尽した者」とは見なされなくなりました。


彼はBC 460年頃に生まれ、BC 370年頃に亡くなったと推定されていますが、彼の活躍した時代はギリシア世界の大部分を巻き込んだペロポネーソス戦争(BC 431年~404年)の期間を含んでいます。アブデーラはデーロス同盟に属していたのでアテーナイ側で戦っていましたが、戦争末期(BC 407年)にはアテーナイに対して反乱し、アテーナイからの派遣軍によって鎮圧されています。しかし、彼の生涯を調べていても、ペロポネーソス戦争下におけるアブデーラでの出来事についての情報は見つかりませんでした。