神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(5):デーロス島の祭礼まで

次に紹介するケオースに関する伝説「アコンティオスとキューディッペー」では、デーロス島でのアルテミス女神の祭礼の話が出てきます。デーロス島がアポローンとアルテミスの誕生の地としてイオーニア人たちから神聖視されたのは、イオーニア人が小アジアへ植民した時代よりあとの時代ですので、私はこの伝説の舞台となった時代は、今までご紹介した伝説よりもずっとあとの時代だと想像します。つまりいわゆる英雄時代ではなく、その次の「鉄の時代」のことだと思います。一方、今までご紹介したアリスタイオスの話やキュパリッソスの話は、トロイア戦争より前の時代に位置付けることが出来ます。そこで「アコンティオスとキューディッペー」の伝説に進む前に、それまでにケオースに起ったことを想像してみることにします。


まず、トロイア戦争の頃のケオース島を考えてみます。ケオースの人々はトロイア戦争に参加したのでしょうか? ホメーロスの「イーリアス」の第2書の「船揃え」の箇所を調べてみましたが、ケオースの名前は登場しませんでした。そういえばイーリアスではエーゲ海の島々からトロイア戦争に参加した人々としては、最大の島であるクレータ島からの人々と、2番目の島であるエウボイア島からの人々、あとは小アジアに近いロドス島やコース島とその周辺の島々からの人々があるだけでした。ケオース島の人々はトロイア戦争に参加しなかったようです。次に、トロイア戦争ののちの大きな出来事はギリシア諸部族の駆逐・移住です。古代ギリシアでは、この駆逐・移住をもって「英雄時代」が終わると考えられていました。

現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後六十年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアと言われた地方に住みついた(中略)。また八十年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔らとともに、ペロポネーソス半島を占領した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1.12 から

ドーリス人はさらにはアテーナイにも進んできましたが、アテーナイ人によって撃退されました。ケオース島にドーリス人が攻めてきたのかどうかは分かりません。攻めてこなかったのかもしれませんし、あるいは攻めてきたがケオース人によって撃退されたのかもしれません。いずれにせよケオース島の住民はその後もイオーニア人のままでした。同じキュクラデス諸島の中でもメーロス島やテーラ島はドーリス人の土地になっています。


その後、イオーニア人たちがアテーナイ王コドロスの息子たちなどに率いられて小アジアの海岸にいくつも植民市を建設しました。エペソスミーレートスなどの町がそうです。このイオーニア人たちはもともとペロポネーソス半島の北側に住んでいましたが、アカイア人によってそこを追い出されて、アテーナイに亡命していたのでした。そのアカイア人はといえば、彼らもまたドーリス人に追い出されてペロポネーソス半島の北側に移住したのでした。この頃のケオース島の様子を想像するに、ケオース島の人々はこのような植民活動には参加しなかったのではないか、と思います。


やがてデーロス島がイオーニア人たちによって神聖視され、イオーニア人たちの宗教的中心地になります。デーロス島でのアポローン神の祭典の様子が「ホメーロス風讃歌」のひとつに描かれています。この「ホメーロス風讃歌」というのは、かつてはホメーロスが作ったものと信じられていたが現代ではホメーロスの真作とは認められていない讃歌群のことです。

その地(=デーロス島)には、裳裾ひくイオニア人が、自分たちの子供や貞淑な妻を伴ない集まりつどう。彼らはあなた(=アポローン神)を記念して競技の場を設けては、拳闘に、舞踊に、歌にと、あなたを喜ばせる。
 イオニア人がつどう場にいあわせた者は、この人々を不死なる者、老いを知らない神々に違いない、と言うほどだ。それほどまでに彼らのすべてが美しい。男たちも、帯の美しい女たちも美しく、彼らの足速い船、豊かな品々、これらを目にするならば、心楽しまずにはいられない。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「アポローンへの讃歌」より

ケオース島の人々もデーロス島の祭典に参加していたことは、次にご紹介する「アコンティオスとキューディッペー」の伝説から知ることが出来ます。

(上:デーロス島の風景)