神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(7):シモーニデース(1)

今までは伝説上の人物の話でしたが、ここからは実在の人物の話になります。シモーニデースはケオース島の町イウーリスに生れ、のちに競技会の優勝者への頌歌や戦死者の墓碑銘の作者として有名になりました。しかし彼の生涯は相互に矛盾する伝説に包まれており、実態はなかなか捉えることが出来ません。たとえば、シモーニデースの作としてよく引用される墓碑銘

旅人よ、ラケダイモーンに行きて告げよ
我ら汝らの掟のままに、ここに横たわれり、と

は、実はシモーニデースの作ではない、という説があります。この墓碑銘はBC 480年の2回目のペルシア戦争の時、テルモピュライの峠でわずか300名でペルシアの大軍に対して防戦して全滅したスパルタ兵(スパルタのことをラケダイモーンとも呼ぶ)を讃えたものです。さて、これがシモーニデースの作ではないという説についてですが、確かにヘーロドトスの「歴史」を見てみると、この墓碑銘の作者をヘーロドトスは書いていません。ヘーロドトスは「歴史」

の巻7,228でテピュモピュライの戦死者への墓銘碑を3つ記しています。一つは全軍の戦死者のためのもので

かつてこの地に三百万の軍勢と戦いたる
ペロポネソスの四千の兵

2番目はスパルタ兵のためのもので

旅人よ、スパルタびとに伝えてよ、ここに彼らが
おきてのままに、果てしわれらの眠りてあると

3番目は従軍占師(当時のギリシアにはそういうものがあったのです)メギスティアスへの墓碑銘で

これなるはそのかみスペルケイオスの流れを越えて攻め来たりたる
メディアびとらの手に果てし、名も高きメギスティアスの墓なるぞ。
死のさだめ身に迫るを知りつつも、
スパルタのつわものどもを見殺しに敢えてせざりし陰陽師

です。ヘーロドトスはこの3番目の墓碑銘については作者の名をシモーニデースと書いていますが、最初の2つについては作者を記していません。

占者メギスティアスの墓碑銘の作者はレオプレペスの子シモニデスで、メギスティアスと親交のあったよしみでこの詩を撰したものであった。


同上

シモーニデースはこの占師メギスティアスと親交があったということなので、ケオースとは関係がありませんが、まずはメギスティアスの物語を紹介したいと思います。それがシモーニデースの作った上の墓碑銘の意味を理解するのに役立つように思えるからです。


メギスティアスは当時の有名な占師で、伝説上の占師メランプースの子孫と言われていました。当時のギリシアでは戦争の際、開戦のタイミングの良し悪しを犠牲の動物の臓物の形状で占うことが一般的で、そのために軍隊には占師が従軍させられました。テルモピュライは山が海に迫っているところで道は狭く、ここでペルシアの進軍を食い止めるには格好の場所でした。事実ペルシア側は2日間ここを突破できず攻めあぐねていました。ところがペルシア王の恩賞を当てにしたあるギリシア人が、抜け道の存在をペルシア王に進言したのでした。この山道を通ればギリシア側陣地の裏側に達することが出来、ギリシア軍を包囲することが可能でした。夜の間に一部のペルシア部隊はこの道を通っていきました。一方、ギリシア陣地ではメギスティアスが夜が明けてからの戦いの行く末を占っていました。

一方テルモピュライに布陣するギリシア人には、まず占師メギスティアスが犠牲獣の臓腑から判じて、暁とともに死の至ることを告げたのであったが、さらには投降者による、ペルシア軍は迂回作戦の情報も入ったのであった。これらはまだ夜の明けぬ間の出来事であったが、第三の報知は既に夜の白む頃、高地から駈け降りてきた見張りの者たちによってもたらされた。


ヘロドトス著「歴史」巻7、219 から

ペルシア軍の一部が背後に廻りつつあることを知ったギリシアの陣地では作戦会議が開かれ、そこでは撤退か抗戦かで意見が分かれました。その結果、ギリシア諸国(=諸都市)の軍のうちかなりの軍が撤退をしました。このギリシア諸都市の軍をまとめていたのはスパルタ王レオーニダスでしたが、彼は徹底抗戦を決意していました。こうして、スパルタとテーバイとテスピアイの3都市の軍隊だけがペルシア軍を迎え撃つことになったのです。


この時、レオーニダスはメギスティアスを、自分たちと運命を共にさせぬため、送り還そうとしました。しかしメギスティアスは「死のさだめ身に迫るを知りつつも、スパルタのつわものどもを見殺しに」できず、一緒に従軍していた一人息子を帰したものの自分はその場に留まったのでした。そして彼はその日に始まった激戦の中でスパルタ兵とともに戦死しました。以上がメギスティアスの物語です。



(左:スパルタ王レオーニダスの像)