神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(10):ペルシア戦争

今までシモーニデースの生涯を追ったところでペルシア戦争が登場しましたので、ペルシア戦争とケオースの関わりを調べていきます。


ギリシア本土がペルシアとの戦争に巻き込まれた原因は、BC 499~493年のイオーニアの反乱でした。これ以前にイオーニア地方を含む小アジアエーゲ海沿岸のギリシア人植民市は皆、ペルシアの支配下にありましたが、イオーニアの都市ミーレートスが中心になって、イオーニアとアイオリスの諸都市がペルシアの支配に対して反乱を起こしました。これに加担したのがアテーナイとエレトリア(エウボイア島にある都市)でした。この2つの都市の軍は反乱の初期にペルシア軍に大敗し、それ以降は反乱から手を引いたのですが、ペルシア王ダーレイオスはこれを口実にしました。反乱鎮圧後、ダーレイオスは、自分はアテーナイとエレトリアに対して何も害を加えていないのにイオーニアの反乱に加担したことを理由に、アテーナイとエレトリアを攻撃することを宣言しました。そして攻撃前にギリシアの諸都市に対してペルシアへの服属を要求しました。

ダレイオスは、ギリシア人が果して自分に対して戦う意志があるのか、それとも結局は屈服しようというのかどうかを試みようとして、ペルシア王に土と水を献ぜよと要求する使者をギリシア各地に派遣した。(中略)ギリシアに派遣された使者に対し、本土においてもペルシア王の要求どおり土と水を献じた町は少なくなかったが、島嶼に至っては使者の訪れたことごとくの島がその要求を容れたのである。ところがダレイオスに土と水を献じた多数の島の中には、アイギナも加わっていた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、48~49 から

上の引用で「島嶼に至っては使者の訪れたことごとくの島がその要求を容れたのである」とありますので、ケオース島にペルシアの使者が訪れたのであれば、おそらく服属の意思を表明したのでしょう。ケオース島にペルシアの使者が来たかどうかは分かりませんが、近くのアイギーナ島には来ているので、ケオースにも来た可能性はあります。


BC 480年ペルシア軍はエーゲ海を西進して攻めてきました。

ペルシア軍はデロスを去って後、次々に島に接岸してそこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした。ペルシア軍は島々を廻っている間にカリュストスへも寄った。


ヘロドトス著「歴史」巻6、99 から

ここでもケオースについては書かれていないので、ペルシア軍がケオース島に上陸したのかどうか分かりません。しかしケオースのすぐそばのカリュストスには上陸したのでした。それどころか、カリュストスは人質の提供を拒絶したために、ペルシア軍に攻撃されて屈服し、人質を差し出したのでした。おそらくケオースにもペルシア軍が上陸し、ケオースはしぶしぶ人質を差し出したのでしょう。このあとペルシア軍はエレトリアを陥落させ、次にアテーナイに上陸します。アテーナイのマラトーンの野でアテーナイ軍は奇跡的にペルシア軍を打ち破ります。ペルシア軍は本国へ撤退しました。

(上:ペルシア軍の侵攻経路)


10年後、今度はさらに規模の大きな陸海の軍を率いてペルシアの新国王クセルクセースが北から攻めてきました。エウボイア島の北端アルテミシオンの海戦にケオースはギリシア側に軍船を派遣して参加しました。

ケオス人は船(三段橈船)二隻と五十橈船二隻を提供した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、1 から

ケオースの人々は今度はペルシアに対して戦う決意をしたわけです。さらにその次のサラミースの海戦でもケオースは参戦しました。サラミース島はアテーナイのすぐ近くにあり、この海域はケオース島からも遠くありませんでした。

この時、エーゲ海の島の住民でペルシアに立ち向かったものは少数でした。ヘーロドトスによれば立ち向かったのは、アイギーナ、エウボイア(一部の町のみ)、ナクソス、キュトノス、ケオース、セリポス、シプノス、メーロスの住民たちです。これらの島以外のすべての島がペルシア側に立ちました。ケオース島の近くでいえば、エウボイアの町カリュストスアンドロス島の住民はペルシア側で参戦していました。しかもこの時ペルシア海軍がケオース島付近に配置されていました。おそらく今回もケオース島にペルシア軍は上陸したのでしょう。

ケオスおよびキュノスラ附近に配置された部隊も発進して、ムニキアに至る海峡全域を艦船で(サラミース島のギリシア軍を)封鎖した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、76 から

このサラミースの海戦でギリシア側が勝利して、ペルシア軍は撤退しました。もちろんケオース島からもペルシア軍は去っていきました。