神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(4):イーカリオス

古代のケオースの人々が夏にシリウス星に犠牲を捧げる風習の由来は以上のものですが、この伝説がイーカリオスという男にまつわる別の伝説と融合しました。イーカリオスの伝説はケオース島とは直接関係ありませんが、その内容を、呉茂一氏の「ギリシア神話(上)」からの引用でご紹介します。

アッティケー州の中で、ディオニューソスの信仰をいちばん早く受け入れたのはイーカリアであった。イーカリアは、アテーナイの北に連なるペンテリコン丘陵の北側にあり、地味の肥沃な土地で、マラトーンの原野にも遠くないまったくの田舎である。その伝説的な郷士イーカリオスは、いち早くディオニューソスを迎え、誠心を披歴したので、これを嘉したディオニューソスは彼に葡萄の木を授け、また酒を醸す術を伝授してやった。そこで酒を造って味わうと、何ともいえぬ快い楽しさなので、御神のこの恵みを諸人にも頒けてやろうと、イーカリオスは近間の牧人や農夫を訪ねてこの酒を味わわせた。


 ところが弁えのない彼らは、イーカリオスの贈り物を定めのように薄めないで、いきなり生のままで飲み下し、しかも甘さにたっぷり酌んだもので、急に酔いが回ってふらふらしてきた。それをてっきり毒を盛られたものと勘違いして、大いに怒った彼らはイーカリオスを殺し、その屍をとある泉か池へ抛り込んだ。一説では一本の木の下へ埋めた。(中略)

(上:ワインを皮袋に詰めて人々に配るイーカリオス(左の人物)と酔った人々(右側))


 一方イーカリオスの娘のエーリゴネーは、父親が酒の袋をもって失踪してから、その行方をしきりに訊ね、方々を巡り歩いたが、誰一人知る者がなかった。彼女には忠実な犬のマイラーが附いて歩き、彼女の身の護りもし、案内をもしていった。長らく乞食のようになって探しあぐねた末、例の樹のそばへさしかかった。その時マイラーが騒ぎ出して、イーカリオスの埋められた場所が見つかった。(中略)ともかく父親の行方は知れたが、それは彼女に何の希望をもたらすものではなかった。絶望したエーリゴネーは、その樹の枝にわなをかけて、縊れて死んでしまった。


 しかし、この恩知らずな人々の上には、やがてディオニューソスの復讐が下された。悪疫が流行し、乙女たちは憑物がして狂い回り、エーリゴネーのように木に縄をかけて縊れようとした。饑饉も襲来した。神託を伺うと、屍を祭り贖罪のきよめをしないうちは、ということだった。それで村の人々もやっと目が覚め、エーリゴネー父子をねんごろに祭り、犠牲をささげて。年ごとにアイオーラーの祭式をこれにちなんで行うことにした。


呉茂一著「ギリシア神話 上」より

実を言うと、私はこの伝説には救いがないと感じていて、好きではありません。それはともかくとして、この伝説の最後のところから判断するに、この伝説は、イーカリアで行われたアイオーラーという祭の由来を説明するものなのでしょう。上の引用では犬のマイラーのその後については語られていませんが、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」によれば、マイラーはエーリゴネーが自殺したのち、その墓のそばで死に、ディオニューソス神がこの犬を空に上げて星座にした、ということです。これが「おおいぬ座」です。また、イーカリオスは「うしかい座」に、エーリゴネーは「おとめ座」になったということです。


シリオスは「おおいぬ座」で一番明るい星です。ここからイーカリオスの愛犬マイラーシリウスが結びつきました。さらにはケオース島でアリスタイオスがシリウスに犠牲を捧げた話にも結び付いて、イーカリオスを殺した人々がケオース島に逃げ、ケオースの人々がそれを匿った、それを怒った神々がケオース島で疫病を流行させた、という伝説が出来たようです。このあとの話は前回述べたものとほとんど同じですが、アリスタイオスはかの殺人犯たちを処刑した、という話が付け加えられています。


ケオースにまつわる伝説としては美少年キュパリッソスの話もあります。キュパリッソスはケオース生れの美少年で、アポローン神のお気に入りでした。彼はアポローン神とともにさまざまな競技に打ち興じていたといいます。このキュパリッソスには可愛がっていた牡鹿がありました。それは立派な角を持ち、見る人に神聖さを感じさせるような美しい姿の牡鹿でした。彼はこの鹿を大切に扱っていました。しかしある日、彼が槍投げの練習をしていたときに誤って槍がこの鹿に当ってしまい、鹿はこれがもとで死んでしまいました。キュパリッソスはこれを深く嘆き悲しみ、悲しみのあまり自分の死を願いました。また、愛する者の死をずっとずっと悼(くや)みたいとも言いました。するとアポローン神はその願いを聞き届けて、彼の姿を悲しみの木である糸杉(ギリシア語でキュパリッソス、英語でサイプレス)に変えてしまったといいます。

 御神(=アポローン神)はふかい溜息をして、樹に向って言われた。「私は永遠にお前を悼(くや)もう、お前はまた永遠に、いつも他(ひと)を悼んでゆくがいい。そしてお前の居場所は、これからいつも墓のそばに定められよう」


同上



(右:糸杉に変身するキュパリッソス)