神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(12):プロディコス(1)

ケオース島は、シモーニデース、バッキュリデースという詩人を生み出した以外にも、ソフィスト(知恵者)と言われる人も生み出しています。ソフィストと呼ばれたプロディコスはケオース島のイウーリスの出身だと言います。例によってプロディコスの生年も没年もはっきりしません。ここでは英語版Wikipediaの「プロディコス」の項の記事に従ってBC 465~BC 395年としておきます。哲学者ソークラテースのほぼ同年代ということになります。


ソフィストという人々がどんな人々だったのかを知るには、哲学者プラトーンの書いた「ソクラテスの弁明」の次の個所は参考になりそうです。以下は、ソークラテースの言葉です。

もっとも、こういうことも、もしひとが人間としての教育というものを行うことができるのなら、結構なことだと、わたしは思っているのです。ちょうど、レオンチノイのゴルギアスケオスのプロヂコス、エリスのヒッピアスなどが、それに当るでしょう。というのは、これらの連中は誰でも、諸君よ、できるのです。どこの国へでも出かけて行って、そこの青年たちに(中略)自分たちといっしょになるように説きすすめ、それに対して金銭を支払わせ、おまけに感謝の情まで起させるという、そういうことができるのです。


プラトーンソクラテスの弁明」 田中美知太郎訳 より
「筑摩世界文學体系 3」に収録

古い本なのでプロディコスのことを「プロヂコス」と書いています。それはともかく、こういうソフィストたちは知識を売って諸国(=諸都市。この頃のギリシア都市国家の時代でしたから、諸国というのは諸都市というのに等しいです)を渡り歩いたのでした。彼らは教師という職業の始祖のようにも思えますが、私には彼らが、今でいうとオンライン・サロンを主宰しているインフルエンサーのような人々のように思えます。


プロディコスの著作は全て散逸し、その生涯についてもほとんどのことが分かっていません。上に引用したの本の注には、こうありました。

プロヂコスの生涯については正確なことはあまりわかっていないが、(中略)ケオスの外交使節としてアテナイに来たことがあり、公用のかたわら私的に講演をしては金銭を得ていたことが「大ヒッピアス」(=プラトーンの対話編の一つ)(2882C)等に見えている。


同上


プロディコスが教えていたことの一つは、言葉の正しい使い方でした。

それはちょうど「おそろしい」という言葉について、私があなた(=プロタゴラス)や誰かほかの人をたたえて「プロタゴラスは知慧のあるおそるべき人物だ」というようなことを口にすると、そのたびにいつもこのプロヂコスが私をしかって、よいものを「おそろしい」などと呼んで恥ずかしくないのかときく場合と同じことです。なぜなら、プロヂコスの言うには、おそろしいというのは悪いもののことである。すくなくとも、誰もこの語を使うそれぞれのときに、「おそろしい富だ」とか、「おそろしい平和だ」とか、「おそろしい健康だ」とかいった言い方はしない。むしろ、「おそろしい病気だ」とか、「おそろしい戦争だ」とか、「おそろしい貧乏だ」とかいった使い方をするのであって、これは「おそろしい」といわれるものが悪いものであることを示していると、こういうのです。


プロタゴラス 藤沢令夫訳
同じく「筑摩世界文學体系 3」に収録


また、クセノポーンの「ソクラテスの思い出」の中には、プロディコスが「ヘーラクレースの選択」という倫理的な寓話を作ったことが書かれています。ヘーラクレースが成人期に差し掛かった時に、「美徳」と「悪徳」を表す2人の女性が現れて、それぞれが美徳への道と悪徳への道を指し示し、このどちらかを選ぶように迫る、という話です。美徳の女性は凛とした美しさをもち、それは純粋さ、謙虚さ、思慮深さを表していました。悪徳の女性は豊満な体つきで、外見だけを飾った容姿と服装をしていました。悪徳の女性は、労苦することなく、あらゆる快楽への最短の道を約束します。美徳の女性は、困難と慎重な努力なしには、本当に美しく良いものを神々はお与えなさらないと言います。悪徳の女性は、美徳の道の難しさを強調して、ヘーラクレースをその道から遠ざけようとします。美徳の女性は、神々と人々から尊敬されている彼女自身が、どのようにしてすべての高貴な仕事につながり、人生のあらゆる状況において真の幸福につながるのか、ということに注意を向けさせます。最後にヘーラクレースは美徳の道を選ぶ、というものです。

(アンニーバレ・カラッチ作「ヘーラクレースの選択」)