神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(11):バッキュリデース

ケオース生まれの詩人シモーニデースには妹がいました。その妹は自分の生まれた町であるイウーリスに住む男性と結婚し、息子が生まれました。その息子は祖父(父親の父親)の名をとってバッキュリデースと名付けられました。祖父のバッキュリデースはイウーリスでは有名なアスリートでした。バッキュリデースの生まれた年については諸説あり、はっきりしません。ここでは、一般的な説に従ってBC 518年とします。伯父のシモーニデースはこの頃はアテーナイの僭主の弟ピッタコスの許にいましたので、ケオースにはおりません。それでもケオースはアテーナイのすぐ近くなので、たまにはケオースに戻って、自分の甥っ子の姿を見たのかもしれません。シモーニデースの生年をBC 556年とすると、バッキュリデースとの年の差は38歳ということになります。さて、BC 514年にヒッパルコスが暗殺され、シモーニデースは新たなパトロンを求めてテッサリアに移住しました。そこから想像するに、バッキュリデースはその少年時代にシモーニデースにあまり会う機会がなかったのでしょう。しかしそれにも関わらず、血筋がそうさせたのか、バッキュリデースも詩作の道に進むことになりました。

(上:現代のイウーリス)


英語版のWikipediaの「バッキュリデース」の項の記事によれば、バッキュリデースが一時期、故郷のケオースから追放されたという説があるとのことです。そして追放中彼はペロポネーソス半島で亡命生活を送ったといいます。そしてその地で、彼の詩に対する天性が開花していき、名声を確立することになる作品群を作っていったといいます。これはいつのことで、いかなる理由でバッキュリデースはケオースを追放されたのでしょうか? それについての説明は残念ながらありませんでした。この頃のギリシアの諸都市では党争は日常茶飯事で、争いの原因はさまざまであり、かつそれらが複数絡み合っているのが普通でした。私はBC 490年より少し前、ペルシア王ダーレイオスがギリシア諸都市に服従を迫った出来事が背景にあるのではないか、と想像しました。ケオースの町イウーリスでもペルシアに服従すべきだという派と、あくまで抵抗すべきだという派に分かれて、両派が争っていたのではないでしょうか。この頃バッキュリデースは27歳ぐらいなので、その年齢ならば彼がどちらかの党派に属していても不思議ではありません。私は、バッキュリデースが抗戦派に属していて、それが原因で服従派から追放されたのではないか、と想像します。これは素人の想像にすぎませんが。


バッキュリデースの詩の断片に次のようなものがあります。

ひとつの規範がある。死すべきもの(=人間)にとって確実な幸せの唯一の方法が。
それは、人が生涯を通して明るい心を保つことが出来れば、である。

こう歌うことが出来た詩人は、いつもこの規範を守って人生を歩んでいたのでしょうか? それとも、ともすれば落ち込みがちな自分の心を叱咤するために、このように歌ったのでしょうか? いずれにせよ、このように歌うことの出来たバッキュリデースは亡命生活にあっても耐えることが出来たことでしょう。


亡命生活がいつまで続いたのかよく分かりませんが、やがて伯父のシモーニデースが彼を援助して、彼を自分のパトロンであるテッサリアのスコパス家やアレウアス家の人々に、のちにはシュラクーサイの僭主ヒエローンに引き合わせてくれました。一方、彼はアテーナイからデーロス大祭の頌歌の作詞作曲依頼を受けたり、アイギーナの貴族から祝勝歌の作詞作曲依頼を受けるようになります。このアイギーナの貴族からの依頼の獲得を、彼はピンダロスと競い合うことになりました。ピンダロスはテーバイ出身の大詩人であり、バッキュリデースとほぼ同年台でした。そしてこの頃の詩人としての名声はシモーニデースとピンダロスの2人が分かち合っていて、バッキュリデースの詩作はそれらに隠れていましたが、それでもバッキュリデースは少しずつ顧客を獲得していきました。そしてBC 476年、バッキュリデースはシュラクーサイの僭主ヒエローンから祝勝歌の依頼を受けます。オリュンピアでの競走馬ペレニコスによる勝利を祝うのが依頼内容でした。もうこの頃にはバッキュリデース自身もシケリア島に渡っており、ヒエローンの宮廷に伯父シモーニデースとともに顔を出していたようです。ヒエローンはシモーニデースとバッキュリデースだけでなくピンダロスや悲劇作家のアイスキュロスも自分の宮廷に招聘していました。


ここでバッキュリデースはヒエローンの寵をピンダロスと争うようになります。誇り高く貴族的なピンダロスは同じ祝勝歌を作るにしても、ヒエローンの統治に対する忠告を織り交ぜて歌い上げました。ところがバッキュリデースはそのようなことはせず、ただ勝利を優雅な調子で誉め讃えました。結局、ヒエローンはピンダロスよりもバッキュリデースのほうを好むようになっていきました。ピンダロスの詩句の中には、シモーニデースとバッキュリデースへの反感を暗示しているとみられるものがあるそうです。


バッキュリデースの没年もはっきりしませんが、一般的な説ではBC 451年だとされています。生年をBC 518年とすれば、享年67歳ということになります。彼の作品はシモーニデースやピンダロスほどには重視されませんでしたが、それでも多くの人々に愛好されました。