神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(9):シモーニデース(3)

しかし当時のテッサリアの宮廷では文芸への理解があまりありませんでした。こんな話が伝わっています。スコパスという名のスコパス家の当主はシモーニデースに、ある拳闘家の勝利を祝する讃歌を書くよう依頼してきました。シモーニデースはその讃歌を作ってスパコスに披露しました。その讃歌では神話上の双子の英雄カストールとポリュデウケース(星座のふたご座はこの2人のことだと言います)を歌いあげました。というのはポリュデウケースは伝説では最強の拳闘家だったからです。このようにまず神話上の英雄たちを歌って、次にこの拳闘家の勝利に主題を移したのでした。しかしこれがスコパスの気に入りませんでした。彼が言うには「カストールとポリュデウケースを歌った部分が長い。わしは、この拳闘家を誉め讃えろと言ったのだぞ。約束の依頼料のうちの半分しかわしは払わん。あとの半分はカストールとポリュデウケースに払ってもらえ」と言いました。


ここから先の話はいかにも作り話めいています。
その後、スコパスはこの拳闘家の勝利を祝う宴会を開きました。そこにはスコパスの親族やシモーニデースも招待されました。この宴会の最中にシモーニデースは、外で二人の若者がシモーニデースに面会したいと言っている、という知らせを受けました。そこでシモーニデースが外に出てみると、そんな若者たちが見つかりません。と思う間もなく背後で大きな音がしました。振り返ってみると、今までシモーニデースがいた宴会場が崩壊したのに気付きました。つまり、二人の若者というのはカストールとポリュデウケースであり、彼らはシモーニデースを救った、というわけです。宴会場にいた人びとは皆、死んでしまったといいます。


(左:カストールとポリュデウケース)

この話にはさらに続きがあって、この宴会場の瓦礫を除いて死亡した各人の身元を確認することが必要になりました。そこでスコパス家の関係者は、直前まで宴会場にいたシモーニデースに協力を求めました。それらの死体の損傷はひどいものでしたが、シモーニデースは誰がどの席にいたのかを記憶していたので、それぞれの遺体の身元を示すことが出来ました。この経験によって、のちにシモーニデースは、場所に関連付けて物事を記憶する記憶術を開発したといいます。西洋の伝統では、シモーニデースは記憶術の元祖とされてきました。


シモーニデースがテッサリアに滞在している間にペルシアはトラーキアを征服し、マケドニアを服属させ、テッサリアにも服従を求めてきました。スコパス家もアレウアス家も簡単にペルシアに服属しました。これがシモーニデースには面白くなかったようです。BC 490年、マラトーンの戦いがあった頃に彼はアテーナイに戻りました。66歳頃のことです。そしてアテーナイ政府からの依頼で、マラトーンでのアテーナイの勝利を讃えた記念碑銘を書いたようです。その後、アレウアス家はペルシア王クセルクセースに、ギリシア本土への侵攻を勧めるようになりました。それだけが原因ではありませんがBC 480年にクセルクセースは陸海の大軍を率いてギリシアの北側から攻めてきました。テッサリアのアレウアス家はさっそくペルシア軍を迎え入れます。その後、テルモピュライの戦いやアルテミシオンの海戦、サラミースの海戦、プラタイアの戦いといったギリシアとペルシアの間の重要な戦いが続きます。シモーニデースはこれらの戦いの墓碑銘や記念碑銘の作成を方々から依頼されるようになり、彼は広い名声を得ました。


この頃、シモーニデースはアテーナイの将軍でサラミースの海戦の勝利に大きく貢献したテミストクレースと知り合いになりました。しかし、テミストクレースはシモーニデースにあまり好意を持っていなかったように見えます。先ほど述べた記憶術についてテミストクレースは「むしろ忘れる技術の方がいい。なぜなら、思い出したくないことは覚えていて、忘れたいことは忘れられないから。」と言いました。また、こんなこともありました。

いつかケオス出身のシモニデスが、将軍職にあったテミストクレスに何か公正を欠く頼みごとをしたところ、こう答えているのである。あなたも歌を調子はずれに歌うようでは立派な詩人にまずはなれないように、自分も法を犯して人の便宜を計ったのでは良い役人になれない、と。


プルータルコス「テミストクレース伝」5節

とはいえ、ヘーロドトスによればテミストクレースはお金に関しては公私混同していた人なので、テミストクレースのこの言葉は文字通りに受け取ってよいかどうか分かりません。また、ロドス島の詩人ティーモクレオーンはテミストクレースを非難していましたが、シモーニデースはティークレオーンと仲が悪かったそうです。彼はティークレオーンの「ペルシアびいき」を嫌っていました。テミストクレースとこの2人の詩人たちの間に何があったのか興味があります。というのは、テミストクレースはのちにペルシアに亡命しているからです。


(右:テミストクレース)


その後、シモーニデースはシケリア島に移住し、シケリア島の町シュラクーサイの僭主ヒエローンの庇護を受けるようになります。ヒエローンは詩人ピンダロスも招聘していました。シモーニデースはヒエローンの宮廷で、貴族的なピンダロスとは馬が合わなかったようです。この時期の逸話として、ヒエローンの妻がシモーニデースに、金持ちであるのと賢者であるのとではどちらが望ましいか尋ねた、というのがあります。シモーニデースは「金持ちですね。賢者は金持ちの家の門前で日々を過ごすのが見られるから。」と答えました。シモーニデースはBC 468年頃、90歳近い年齢でシケリアで没しました。その没年に近いBC 469年、アテーナイのテミストクレースが、アテーナイ人その他からペルシアへの内通の疑いで告発されて、ペルシアに亡命しています。