神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ケオース(3):アリスタイオス

ケオース島にまつわる神話の1つは、古典時代のケオース島住民が「おおいぬ座」の一等星シリウスに犠牲を捧げるという風習の起源を説いています。英語版Wikipediaの「ケア島」の項には以下のように書かれていました。

(ケオース島の)住民は、夏に犬の星シリウスが再び現れるのを待つ間、涼しい風をもたらすようにとシリウスとゼウスに犠牲を捧げることで知られていました。星がきれいに昇れば、それは幸運の前兆となりました。それに霧がかかっていたり、かすかであったりした場合、それは疫病を予告した(または発散した)ことを意味します。BC 3世紀に島から出土したコインには、光線を放つ犬や星が描かれており、シリウスの重要性が強調されています。


英語版Wikipediaの「ケア島」の項より


(上:ケオース島で出土したコイン。光線を放つ犬の絵が刻印されている。)


この風習は、かつてアリスタイオスがキュクラデス諸島に流行った疫病をシリウス星に犠牲を捧げることで止めたという伝説に由来します。アリスタイオスはアフリカの現在ではリビアにあたる地にあった古代都市キュレーネーの出身で、母親の名前もキュレーネーでした。そして父親はアポローン神でした。アポローン神は、テッサリアのピンドス山で家畜を追っていたキュレーネーを見初めたのでした。キュレーネーはその時、家畜を襲ったライオンを素手で倒していたのですが、その雄姿をみたアポローン神は(強い女性が好きだったのか)キュレーネーに激しく恋し、彼女をさらってリビアまで連れていったのでした。そしてその場所はキュレーネーにちなんでキュレーネーと呼ばれるようになりました。こうして生まれたのがアリスタイオスで、のちに彼は人々に養蜂の仕方を広めたと言われています。



(左:アリスタイオス)


さてある年、酷暑の頃に、キュクラデス諸島に疫病が流行することがありました。アポローン神は医療の神でもあるので、助けを求めるキュクラデス諸島の人々の訴えを放っておくわけにもいかず、息子のアリスタイオスにケオース島に向かうように命じました。あるいはアリスタイオスに「汝はケオースにて大変な尊敬を受けるであろう。」という神託を下したといいます。キュクラデス諸島というのはデーロス島を中心とする一連の島々で、ケオース島もキュクラデス諸島に属していました。キュクラデス諸島の主な島々を下に示しました。

アリスタイオスはケオースの山に登ってそこにゼウス神の大祭壇を造り、ゼウスとシリウス星(古代ギリシア語ではセイリオスと言います)に犠牲を捧げました。ゼウス神はエテーシアイという名の季節風(これは乾いた北風です)を送って疫病を吹き払いました。それ以来この風は夏の暑い頃に吹いて、キュクラデス諸島の空気を清めるようになったのでした。


ところでシリウス星が疫病や夏の暑さとどうして関係があるのでしょうか? そもそもシリウス星は冬の夜空に輝く星です。そこには古代ギリシア人の観察力や独特な考え方がありました。シリウス星は恒星の中で一番明るく輝く星です。古代ギリシアの人々はこの星の輝きが(ちょうど太陽がそうであるように)暑さを地上にもたらすのだと考えました。そして太陽とシリウスの両方が空にある時に地上が暑くなると考えました。7月になると日の出の頃にシリウスも東の空に昇ります。その後空が明るくなるとシリウスの姿は見えなくなりますが、それでも空にあることを古代のギリシア人は知っていました。つまり夏の間は昼間に太陽とシリウスの両方が空にあるのでした。この事実を古代ギリシア人は夏の暑さの原因(のひとつ)と考えたわけです。次の詩行はヘーシオドスの「仕事と日」の一部ですが、ここでは秋になるとシリウスの出現期間が夜のほうにズレるために暑さが和らぐのだと歌っています。

刺すごとき陽(ひ)の力が衰え、汗を吹き出す暑熱も和らいで、
その力いとも強きゼウスが、秋の雨をお降らせになると、
人間の身も俄(にわ)かに軽やかに動くようになる――
この頃になればセイリオス(シリウス)の星が、終(つい)には死すべき人間の頭上を、
昼のうちに進む時は短く、おおかたは夜の時を占めるからだが――


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より


ではシリウス星と疫病の関係は何か、と言いますと、これは暑さとともに流行病が起きることが多いので、疫病の原因をシリウス星と考えたようです。ホメーロスの「イーリオス」でもシリウス星を熱病の原因であると歌っています。

その星(=シリウス)こそ、晩夏(おそなつ)の頃現われ出て、沢山な星の間に
ことさら目立って、光芒を 夜の暗闇に照り輝かせる、
して世の人から、亦(また)の名をオーリーオーンの犬と呼ばれ、
一番に燦々(きらきら)しい星ながらも、禍のしるしとされて、
夥(おびただ)しい熱病の気を みじめたらしい人間らにもたらすもの、


ホメーロスイーリアス」第22書 呉茂一訳 から

ここで「オーリーオーンの犬と呼ばれ」と歌っているのは、シリウスが「おおいぬ座」を構成する星であることと、「おおいぬ座」が「オリオン座」の近くにあることを踏まえた表現です。このようにシリウス星は輝かしくも不吉な星と考えられていました。