神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スタゲイラ(1):母市アンドロス

スタゲイラは有名な哲学者アリストテレースが生まれた町として知られています。逆に言えばそれ以外の情報はあまり見つかりません。そのような町の歴史について、私のような素人がどこまで書くことが出来るのか、やってみました。


(左:アリストテレース

スタゲイラはカルキディケー半島に位置しています。カルキディケーの名前は、エウボイアの有力都市カルキスからの人々が主に植民したことに由来しています。しかしながら、スタゲイラはカルキスの植民市ではなく、アンドロス島の植民市でした。アンドロス島はエウボイア島の南にある島です。スタゲイラに関する記事が少ないので、その母市であるアンドロスから話を進めようと思います。


英語版のWikipediaの「アニオス」の項によれば、デーロス島の初代の王になったアニオスにはミュコノス、アンドロス、タソスの3人の息子がおり、ミュコノスはミュコノス島の、アンドロスはアンドロス島の王となった、という伝説(ビュザンツのステファノスによる)があるそうです。しかし、王となったアンドロスの子孫についてとか、その後のアンドロス島の話とかは残念ながらそこには書かれていませんでした。ところでアンドロスの父アニオスはアポローン神の息子でした。アニオスについては「カリュストス(1):ロイオー」に書きましたので、よろしければご覧下さい。この伝説に何か歴史を読み取ろうとするならば、アンドロスデーロス島との関係が深かった、ということが読み取れそうです。デーロス島はアポローン神が生まれたとされる島で、イオーニア人によってアポローンの聖地とされた島です。アンドロス島はこの聖地の近隣の島という位置づけがなされていたようです。


一方、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」でアンドロスが登場するのは1か所だけで、そこにはコース島およびその近隣の島々の領主だったペイディッポスがトロイア戦争に出征し、トロイア陥落後にコース人とともにアンドロス島に移住した、ということが書かれています。これには何か歴史的な事実が反映されているのでしょうか? 私には分かりません。


考古学の知見では、ミュケーナイ文明の崩壊後、アンドロスは北のエウボイア島の文化の影響を受けていたことが分かっています。そしてBC7世紀にはアンドロスはエウボイア島にある都市エレトリア支配下にありました。そうするとアンドロスエレトリアの植民市として設立されたのでしょうか? そこのところは私にはよく分かりません。さて、BC 710~650年頃、エレトリアは近隣の都市であるカルキスと長い戦争を行います。これはレーラントス戦争と呼ばれています。一方、BC 650年頃アンドロスは、カルキディケー半島付近に4つの植民市を建設しました。そのうちのひとつがスタゲイラで、あとの3つはアカントス、アルギロス、サネーという町でした。

ということはレーラントス戦争でエレトリアの力が弱体化し、それによってアンドロスが自由に活動できるようになり、その結果として植民活動がさかんになったのかもしれません。英語版Wikipediaの「スタゲイラ」の項によれば、スタゲイラが建設されたのはBC 655年とのことです。


この時代のスタゲイラことはよく分かっていません。この時代はパロス島出身でタソス島に移住した詩人アルキロコスが活躍した時代です。アルキロコスが移住したタソス島はスタゲイラからそれほど離れていません。アルキロコスはそこで荒くれの傭兵たちと一緒に、酒と戦闘の日々を送っていたのでした。主な敵は大陸側の原住民であるトラーキア人たちでした。もっともトラーキア人から見れば、自分たちの土地に植民市を建設するギリシア人は侵略者だったので、それに対して抵抗するのは当たり前のことでした。スタゲイラでもトラーキア人との抗争があったことと想像します。

我が魂、我が魂、癒しがたい不幸によってかき乱された全てのものよ、
今はこちらから、そして今はあちらからと、お前に殺到する多くの敵に
耐え、持ちこたえ、正面に迎えよ、間近な衝突の全てに耐えよ。
ためらうな。そしてお前は勝つべきだ。おおっぴらに勝ち誇ることもなく、
あるいは負けて、家の埋みの中で自分を歎きの中に投げ込むこともなく。
度を越さずに、楽しい物事には喜び、つらいときは悲しめ。
男の人生を支配するリズムを理解せよ。


アルキロコスの詩の断片。英語版のWikipediaのアルキロコスの項より

グラウコスよ、傭兵は戦闘中のみ友達だ。


アルキロコスの詩の断片。「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」藤縄謙三著 より