神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アカントス(1):創建


エーゲ海の北西の沿岸地域はカルキディケー地方と言います。エウボイア島の町カルキスの植民市がこの地方に多く建設されたためにカルキスにちなんでこう名付けられました。このカルキディケー地方には南に向けて半島が3つ伸びていて、それぞれ東からアトス半島、シトニア半島、カサンドラ半島と呼ばれています。その一番東のアトス半島には標高2033mのアトス山があり、この山にはギリシア正教修道院が多くあって、俗世から隔絶された環境を保っています。もちろん、これはキリスト教が始まってからのことであり、このブログが主に扱っている古代ギリシアの時代にはギリシア正教修道院はありませんでした。アトス山の麓を北に向かって下っていくと、半島の付け根近くで半島の幅が最も狭くなっているところにアカントスの町があります。

 アトスは海に突出して聳える名高い大山で、ここには人も住んでいる。この山が尽きて本土に連なるあたりでは、半島状になり約十二スタディオンの幅の地峡を成している。この地峡は平野と小丘陵とから成り、アカントス附近の海からトロネ前面の海に亘(わた)っている。


ヘロドトス著「歴史」巻7、22 から


カルキディケー地方にある植民市の多くがカルキスの植民市であったのとは異なり、アカントスはアンドロス島の住民によって建設されました。伝説によれば、アカントスが創建されたのはBC 655年ということです。植民市の創設に関しては以下のような伝説が残っています。


アカントスは元々別の民族(トラーキア系か?)の町でした。この町を奪取しようとしてアンドロスからの植民者たちが攻めてきました。ところが偶然にもカルキスからの植民団も同じことを考えていて、彼らはアカントスの海岸で出くわしたといいます。アカントスの先住民たちは武装したギリシア人の集団の姿を見てこれを恐れ、町から脱出しました。2つの植民団は町で何が起きたかを確認するために、それぞれ独立に斥候を送ることにしました。斥候たちは町に近づいてそこが、もぬけの殻であることに気付きました。彼らはそれぞれ自分の仲間のために町の所有権を得ようと考え、その町に最初に入る人になろうとして走り始めました。カルキス人の斥候のほうが先に到達しそうでした。アンドロス人の斥候は自分が負けそうであるのに気づくと立ち止まり、町の城壁の門に向けて槍を投げつけました。このあと、カルキス人の植民団とアンドロス人の植民団の間で町の所有権について争いがありましたが、裁判の結果(それにしても誰が裁判したのでしょうか?)、アンドロス人の槍が先に町の門に到達していたことが理由となって、町はアンドロス人たちに属するという判決がなされた、ということです。このことがあって、アカントスは周辺のカルキス系植民市とは微妙に対立するようになったようです。


アカントスの母市アンドロスはこれより以前、エレトリア支配下にありました。エレトリアカルキスどちらもエウボイア島にある町で、両者はBC 710年頃からレーラントス戦争という戦争を戦っていました。そしてちょうどアカントスが建設された頃にこの戦争は終結しました。この戦争はどちらが勝ったのかもはっきりしない結末となり、カルキスエレトリアの両者はそれぞれ国力を消耗して衰退しました。そんな時期のアンドロスによる植民市建設の背景には、カルキスとアンドロスの間に微妙な対立関係が存在していたのかもしれません。アカントス建設と同時期にアンドロスはアカントスの近くにさらに3つの植民市を建設しています。それらの植民市は、サネー、スタゲイラ(哲学者アリストテレースの出生地として有名)、アルギロスという町です。特にサネーの町はアカントスのすぐ近くにあり、アトス半島の地峡の東側にアカントスが、西側にサネーが位置していました。


アカントスという町の名前は、植物のアカンサス(ハアザミ)に由来します。この植物は、地中海の岩の多い海岸に生息しているということです。おそらくアカントスの町の近くにこの植物が豊富にあったのでしょう。このアカンサスの葉の形は古代ギリシア人のお気に入りで、古代ギリシアの建物の装飾によく使われます。またアカントスは、現代のギリシア共和国の国花にもなっています。


(右:アカンサス






(左:アカンサス装飾)

アカントスの建設から120年間ぐらいのことについてはよく分かりません。おそらく原住民であるトラーキア人との抗争が続いたのではないかと思います。トラーキア人とは抗争していただけではなく、交易もしていたことでしょう。BC 530年頃にはアカントスの町は独自のコインを鋳造するようになりました。そのコインにはライオンが牛を殺す絵が刻印されています。実はこの辺りは当時、ライオンの生息地でした。現代から考えると想像しにくいことですが、当時ライオンは今よりずっと広い地域に生息していました。ヘーロドトスは、ライオンの生息域について以下のように述べています。


(左:アカントスのコイン)

アブデラの町を貫通するネストス河と、アカルナニア地方を流れるアケロス河とがライオンの棲息地の限界となっており、事実ネストス河以東のヨーロッパ全域、およびアケロオス河以西の大陸全土にわたって、ライオンの姿は一頭も見られず、両河の中間地域にだけ棲息しているのである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、125~126 から