神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(10):アルテミシオンの海戦

BC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から攻めて来たのでした。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊はエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。というのもペルシア軍も海陸2つの部隊が歩を揃えて向ってくるからなのでした。このアルテミシオンにカルキスは20隻の船を出しました。ヘーロドトスはわざわざ「カルキス人はアテナイの提供した船二十隻に乗り組み」と書いています。なぜ自前の船でなく、アテーナイが提供した船に乗っていたのでしょうか? この頃のカルキスとアテーナイの関係が気になります。


まず、ギリシア側の船3隻が南下するペルシア軍をいち早く発見しようと、スキアトス島付近を哨戒していたのですが、ペルシアの艦艇に発見され、うち2隻が捕獲されてしまいました。このことが知られるとギリシア側はおじけづき、ともかくエウリポス海峡を守らなければならない、ということでカルキスに移動しました。ところがこの日の晩から嵐が吹き始め、それは3日間続き、ペルシア海軍の船にかなりの損害を与えました。そのことをエウボイアの山岳に残しておいた物見の部隊が見て知り、カルキスにいるギリシア軍に知らせました。

これを聞いたギリシア軍は、「護国の神ポセイドン」に祈願を籠め神酒を灌いだ後急遽アルテミシオンへ引き返していった。立ち向かってくる敵船の数はもはや何程もあるまいと考えたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、192 から

ギリシア側はアルテミシオンに、ペルシア側は大陸側のアペタイというところに碇泊して睨みあいました。ペルシア側は全艦隊の中から200隻を割いて、密かにエウボイア島の東側を南下して島をぐるっと回り、エウリポス海峡に達するように命じました。アルテミシオンのギリシア艦隊の退路を断つ計画です。しかし、この200隻は途中で嵐にあって全滅してしまいました。これをヘーロドトスは神の配慮と呼んでいます。

この部隊が航行してエウボイアの「凹(くぼ)み」のあたりにさしかかった時、暴風と豪雨に襲われ、嵐に流され行方も知らず漂ううちに岩礁に乗り上げてしまった。これもすべて、ペルシアの戦力が格段に優勢にならぬよう、ギリシア軍と等しなみにしようとの、神の配慮のなせる業であった。


ヘロドトス著「歴史」巻8、13 から


このあと両者は会戦します。この日はちょうど陸上のテルモピュライでもペルシア軍とギリシア軍が会戦することになっていました。アルテミシオンの海戦は激戦となり、両者引き分けになってこの日の戦闘を終えます。両軍はそれぞれの根拠地に引き上げました。しかし、テルモピュライの隘路ではペルシア軍がギリシア軍を圧倒しました。その知らせがアルテミシオンに届くと、もはやテルモピュライを突破されたらペルシア軍はエウリポス海峡も確保するだろうし、アテーナイに向うのを効果的に防ぐための地形もない、ということで、アルテミシオンを撤退し、アテーナイ近海のサラミース島に集結することにしました。ギリシア軍がアルテミシオンを撤退した翌朝、ペルシア軍がエウボイア島の北端に上陸します。エウボイア島の北部にあるヒスティアイアという町の一住民が、わざわざペルシア側にギリシア軍の撤退を知らせたからでした。

ヒスティアイアの一住民が舟を駆り、ギリシア軍のアルテミシオン撤退の報をもって、ペルシア軍の陣営を訪れた。ペルシア人はその報に疑念を抱き、注進にきた男を監禁しておく一方、快速船数隻を派遣し状況を偵察させた。この者たちから実情の報告を得て始めて、ペルシア全艦隊は、朝の日の照り初(そ)める頃、一団となってアルテミシオンに向って航行し、ここに昼頃まで留まった後、ヒスティアイアに向った。ここに着くとヒスティアイアの町を占領し、北エウボイアのヒスティアイオティス地方の海岸に面する部落をことごとく蹂躙した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、23 から


このあとペルシア軍はカルキスまで進駐したのでしょうか? そしてカルキスの住民はそれ以前に避難出来たのでしょうか? ヘーロドトスはそれについて何も書いていません。ただ、間接的な情報があります。それは、このあとのサラミースの海戦でもカルキスの20隻の軍船はそのまま参加していることです。これとは対照的にプラタイアというボイオティア地方の町の兵はサラミースの海戦に参加しなかったのですが、それはギリシア軍がアルテミシオンから撤退する際に、プラタイア軍はカルキスで下船してプラタイアにいる家族たちを避難させたが、それをしているうちにギリシア軍から取り残されたためである、とヘーロドトスは書いています。ということは、カルキスの海軍はカルキスの前を通りながら、そこで下船せずにそのまま通過した、ということになります。それは、それ以前に住民の避難が完了していたからなのでしょうか? それとも今更避難を始めても手遅れで、それよりは残りのギリシア軍と共にペルシア軍に立ち向かうほうがまだ勝ち目がある、と考えたからなのでしょうか? それとも、この頃もまだアテーナイはカルキスの支配権を握っていて、カルキスよりもアテーナイの防衛を優先するように強いたのでしょうか? 私にはよく分かりません。ただ、アテーナイが支配権を握っていないことが確かなエレトリアの船もサラミースの海戦に参加しているので、アテーナイがカルキスよりアテーナイの防衛を優先するように強いた、という推測は間違っていそうです。