神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(3):アウリス

(1)はじめに」でも述べましたが、詩人ヘーシオドスが、船に乗って海を渡ったのは一回しかない、それもアウリスからエウボイア島に渡った時の一回だけだ、と述べた時に、このアウリスについて、その昔、トロイアに出征するギリシア軍が集結した場所と説明しています。

わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、
その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、
聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、
嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、

ここからわしは、英邁の王アンピダマースの葬いの競技に加わるべく、
カルキスに渡った。


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より

アウリスは、エウリポス海峡の近くで、カルキスの対岸(大陸側)にある小さな集落です。なぜここにギリシア軍が集結したのか、その理由は分かりません。それはともかく、このアウリスに集結したギリシア軍(アカイア勢)についてお話ししようと思います。


トロイアに攻め入るギリシアの艦隊がアウリスに勢ぞろいした時のことです。この時、逆風が何日も何日も続き、船隊を出航させることが出来ないでいました。上のヘーシオドスの「仕事と日」の中でも「美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリス」と唱っています。アイスキュロス作の悲劇「アガメムノーン」では、その時のことを以下のように叙述しています。

カルキスの向いの岸、アウリスの、潮が
寄せては返す浜辺に泊(かか)っていたとき
疾風(はやて)はステュルモンから吹き寄せやまず、
船出を延ばし、餓(う)えをもたらし、あいにくと港に押しこめられた
人々をまよわせてから、船もそのうえ
船具まで さんざん痛めつけては、
くり返し 長いこと待たせておいて、
アルゴスのますらおどもが精粋を
涸らしていった。


ギリシア悲劇全集Ⅰ」の中の呉茂一訳「アガメムノーン」より


この嵐は何か神の祟りではないかということで、従軍していた予言者カルカースが占うと、これは女神アルテミスの祟りである、と占いに出ました。全軍の大将アガメムノーンがアルテミスの神聖な鹿を狩りで射止めたことをアルテミスがお怒りになった、とカルカースは述べたのです。そして、アルテミスの怒りを解くためには、アガメムノーンの長女イーピゲネイアを女神への人身御供(ひとみごくう)に捧げなければならぬ、と言うのでした。

さてその折に
はげしい嵐をのがれる途と 別な手段(てだて)を、
――大将方(=総大将アガメムノーンとその弟メネラーオスのこと)にはいちだんと、きびしいながら――
アルテミス神をひきあいにして、陰陽師
宣告したもの、さればアトレウス家の
殿たち(=アガメムノーンとメネラーオス)は 大地を杖で打ち叩きつつ、
涙をとどめもあえなかったが


同上


アガメムノーンは娘の親として当然、その神託の命令に従いたくありません。しかしアガメムノーンが招集した軍勢はすでにトロイアの富を略奪する期待に胸を膨らませており、とても遠征中止を言えるような状況ではありませんでした。アガメムノーンはとうとうトロイア遠征を優先して、娘をいけにえに捧げる決心をします。

国王(=アガメムノーン)は、妻仇(めがたき)討ちの
戦さを援け、かつは船手をすすめるための
儀式の始めに、己(おの)が娘の
屠(ほふ)り手にさえ、なろうとされた。


同上

こうして自分の館から娘のイーピゲネイアを、真実を伏せたまま、英雄アキレウスとの婚姻の式を挙げるとの口実で、アウリスに呼び寄せます。


やがてやってきたイーピゲネイアを祭壇に載せ、予言者カルカースが刀を振り上げ娘を殺そうとした時に、女神アルテミスはイーピゲネイアを憐れんで一瞬のうちに牝鹿を身代わりにし、イーピゲネイアをさらって、遠い東の黒海沿岸にあるタウロイ人の国に連れていったのでした。一方、アウリスに集結していたギリシア軍の兵士たちは、イーピゲネイアが消えたことは認めたものの、イーピゲネイアの行方については分からないままでした。とにかくこれにより逆風はおさまり、軍勢はトロイアへ進んでいくことが出来たのでした。

(上:アウリスのイーピゲネイア。いけにえにされようとしているところ。すでに身代わりの鹿のすがたも描かれている。)


このギリシア悲劇「アガメムノーン」は、アガメムノーンの妻クリュタイメーストラーが、殺された娘の復讐を夫に果たすことを主題にしています。悲劇「アガメムノーン」でのクリュタイメーストラーのセリフのひとつを紹介して、この話を終わります。トロイアから凱旋してくる夫アガメムノーンを迎えて、ひそかに復讐の成就を神々の王ゼウスに祈願しているところです。

ゼウス神、願いを果たさすゼウス御神、何とぞ私の願いを遂げさせて下さいませ。その上は遂げようとお定めの何なりとも、神慮のままになされましょう。


同上