神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(5):植民活動

カルキスの南と東には、レーラントス平野という平野が広がっています。日本のウィキペディアの記述では「レラントス平野は農業に適しており、ギリシアでは肥沃な土地は希少なものであった。」とか「豊かなレラントス平野」(ともに「レラントス戦争」の項から)と書かれていたので、それを読んだ時は肥沃な平野をイメージしていたのですが、グーグル・ストリート・ビューで見ると、ずっと乾燥した風景でした。おそらくブドウ栽培に適しているのでしょう。


このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに古代の遺跡があります。この遺跡であった町が活動していた古代に、この町が何と呼ばれていたのか、現代では分からないままです。それで考古学者の間では、この遺跡を、近くにある現代の村の名前を取ってレフカンディという名前で呼んでいます。レフカンディはあくまで仮の名前で、本当の名前は分かりません。考古学的な証拠から、このレフカンディがBC 825年頃という大変古い時代に大きな破壊を受けた、と推測されています。そして、その頃、その東のエレトリアの地に町が出現しています。このことから、レフカンディが何者かによって破壊され、その住民の多くは東に移動してエレトリアを建設した、と考えられています。レフカンディを破壊したのはカルキスでしょうか? そうすると、のちのレーラントス戦争(カルキスとエレトリアの間の戦争)につながる出来事と位置付けられるので、その可能性も考えられます。しかし、このあとカルキスとエレトリアは共同して各地に植民市を建設しているので、カルキスとエレトリアの関係が良好なことがうかがわれます。もしカルキスがエレトリアの前身であるレフカンディを破壊したのだとすると、このような良好な関係は考えにくいです。このような理由から私は、レフカンディを破壊したのはカルキスではない、と考えています。


レフカンディの破壊から約70年後、カルキスとエレトリアは共同で植民市ピテクーサイを建設します。ピテクーサイは今のイスキア島で、イタリアのナポリの沖にある島です。その後、ここを拠点としてカルキスはイタリア半島側にキューメーを建設します。ここはのちにクーマエと呼ばれた地で、ナポリの近くです。

(上:イスキア島)


さらにカルキスはナクソスと共同で、シシリー島に(当時の呼び名で言えばシケリア島に)ギリシアの植民市としては最初になるナクソスを建設します。それはBC 734年前後のことと推定されています。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。ちなみに今日でもギリシア本土の祭祀に詣でる使がシケリアを出航するときには、先ず最初にこの祭壇で犠牲をささげることになっている。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・3 から


(シシリー島の)ナクソスは、さらに植民市を建設していきます。

他方、トゥークレースをいただくカルキス人らは、シュラクーサイが建設されてから五年目に(BC 729年頃)、ナクソスを基地としてシケロス人と戦い、これを駆逐してレオンティーノイ市を建設、つづいてカタネーを建設した。


同上

シケロス人というのは、シシリー島に当時いた先住民です。


 また、ピテクーサイ建設と同じ頃、カルキスとエレトリアは共同で、今のトルコの地に植民市を建設しています。この植民市も古すぎて当時の名前が分かっていません。考古学者は現代の地名を用いてこの町の遺跡をアル・ミナと呼んでいます。トルコのシリア国境に近い場所です。このようにイタリアからシリアまで東西に広く、カルキスとエレトリアの通商ネットワークが確立されたのでした。アル・ミナは当時の先進地域であり、一方イタリアやシシリー島は後進地域だったと思います。このようにさまざまな文化程度の民族間の通商でカルキスとエレトリアは利益を得、繁栄を享受していたようです。


このようにカルキスは文献資料があまりない時代に活発な植民活動を行っていたのでした。