神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(11):戻ってきたアテーナイ人入植者

カルキスはサラミースの海戦に20隻の軍船で参加します。この海戦ではギリシア側が快勝しました。ペルシア王クセルクセースはアテーナイを占領し、小高い山に玉座を据えて観戦していたのですが、自軍の敗北が明らかになると慌ててペルシア本国に逃げ帰ってしまいました。こうしてカルキスもペルシア軍から解放されたはずですが、サラミースで戦ったのち帰国したカルキスの兵士たちはどんなふうになった町を見たことでしょうか? ペルシア軍が来る前に住民が避難出来たかどうか気になります。避難するにしてもどこに避難出来たのかも気になります。山に潜んでいたのでしょうか? 海に乗り出したのでしょうか?


ともあれ、カルキスにとって反撃の時が来ました。翌年のプラタイアの戦い(今度は陸戦)にもカルキスは400名の戦士を派遣しています。このプラタイアの戦いにギリシア側が勝利したことでギリシア本土からペルシア軍は一掃されました。


その後カルキスは、アテーナイ主導で組織されたデーロス同盟に参加します。しかしアテーナイはこの同盟を利用して勢力を伸ばし、他の同盟国を圧迫していきます。プラタイアの戦いから32年たったBC 447年、アテーナイはエウボイア島の南端の町カリュストスに1000名の植民者を送り込みました。このことも誘因になったかもしれませんが、さらにはエウボイアの富裕階級で亡命していた者たちが、ボイオーティアのアテーナイからの離叛に加担して成功したこともあって、BC 446年、カルキスを含むエウボイア全島はアテーナイに対して反乱を起こします。

この事件後、ほどなくしてエウボイアがアテーナイ人の支配から離叛した。これを討つべくアテーナイの軍勢を率いてペリクレースがすでにエウボイアに渡ったとき、かれのもとに知らせが届き、メガラの離叛、ペロポネーソス勢のアッティカ侵入計画(中略)などが報じられた。ペリクレースは急遽エウボイアから軍勢を本土に戻した。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、114 から

同時に各方面からアテーナイに攻撃が加えられているところから見ると、彼らはおそらく最初から連携して行動したのでしょう。しかしアテーナイはこれらを撃退して再びエウボイアに軍を進めます。

アテーナイ勢はふたたび兵を送ってエウボイアに渡った。指揮者はペリクレースであった。そして全島を屈服せしめ、ヘスティアイア以外の諸都市を条約国にくみ従えたが、ヘスティアイアからは全市民を追放して、アテーナイ人の占有地とした。


同上

この時、アテーナイがカルキスに対してとった処置についてはプルータルコスが伝えています。

離反した人々に再び眼を向け、五十隻の軍艦と五千人の重装兵をもってエウボイアーに渡ってそこの町々を屈服させた。かつ(ここに脱文があるらしい)カルキスではヒッポボテースと呼ばれる富と名声の秀でた人々を町から追放し、ヘスティアイアの人々をことごとくその地方から放逐してアテーナイの植民を送ったが、ここの人々にだけ無容赦な態度を取ったのは、前にアッティケーの船を捕獲して乗組員を殺したことがあったためである。


プルータルコス「ペリクレース伝」23節 河野与一訳 より。(ただし、旧漢字、旧かなづかいは、現代のものに改めました。)


また、岩波文庫トゥーキュディデース「戦史」の上記の引用部分の注には、以下のように反乱鎮圧後に締結されたカルキスとアテーナイの条約についての説明があります。

カルキスとの条約によれば(Tod, Nr, 42)、カルキスはアテーナイへ忠誠を誓い(同盟へではなく)、人質を差出し、アテーナイ人守備兵の駐留を認める。市民の死刑、追放、市民権剥奪に関する裁判はアテーナイ本国の法廷でおこなわれる。その他の施政問題はカルキス市民が決裁する、という性質のものであった。しかしアテーナイ人は大地主の所領を没収し「民主勢力育成」のために農地の細分化再配分をおこなったらしい。

ペルシアの侵攻によって一度は逃げて行ったアテーナイ人植民者は、一世代と少しあとの時代にはやっぱりカルキスに戻ってきたのでした。これは、エウボイアがアテーナイに近い穀倉地帯であったことが大きな要因だったのでしょう。アテーナイとしては、エウボイアの穀倉地帯を支配下に置く強い理由があったのでした。