神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(4):レーラントス戦争

トロイア戦争後のギリシアについて、トゥーキュディデースは以下のように述べています。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てるものがつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんどすべてのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアと言われた地方に住みついた(中略)。また八十年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔たちとともに、ペロポネーソス半島を占領した。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

トロイア戦争後のギリシアは動乱の時代でした。この中でカリュストスに関係がありそうなのは、ボイオーティア人の南下です。ボイオーティア地方というのは、カリュストスのあるエウボイア島の西海岸に面した大陸側の地方を指すのですが、古くはそこはカドメイアと呼ばれていました。そこに北からボイオーティア人が侵入してきて、元から住んでいた住民を追い出したのでした。そして地名もカドメイアからボイオーティアに変ってしまいました。追い出されたカドメイアの旧住民の一部はエウボイア島に流入しただろうと思います。

(ボイオーティア人の侵入)


この動乱の時代とその後の文明が低調な時代は、伝説も少なく、文字資料もなく、分からないことが多いです。私はこの時代のことを「神話と歴史の間の時代」と呼んでいて、この時代について何か分かることはないか、と調べています。しかし、大抵は何も分からないことを再確認するだけの結果になっています。


トロイア戦争から500年ほどたったBC 700年頃、エウボイア島の2つの都市、カルキスエレトリアが戦争をしていました。この2つの都市は近接していて、その間にはレーラントス平野があります。この平野の帰属を巡ってカルキスエレトリアは戦っていました。後世、この戦争をレーラントス戦争と呼んでいます。このレーラントス戦争にはカルキスエレトリアだけでなく、多くの都市国家が巻き込まれました。

古い昔にカルキスエレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 15」より

英語版のWikipediaによれば、この時カリュストスはカルキスに味方しており、そのためにエレトリアを味方するミーレートスから攻撃を受けた、ということです。

BC 700年頃、エレトリアの母市であるレフカンディが最終的に破壊されました。おそらくカルキスによってと思われます。これにより、エレトリアとレーラントス平野とのつながりが断ち切られました。同じ頃、エレトリアの同盟国ミーレートスがエウボイア島南部の町カリュストスを襲撃しました。この段階で、ミーレートスエーゲ海東部の支配的勢力になりました。


英語版Wikipediaの「レーラントス戦争」の項より

この頃はまだ海戦というものがなかったそうなので、ミーレートスエーゲ海を船で横断して、カリュストスに上陸して、陸上で戦ったのでしょう。カリュストスがレーラントス戦争の時代にどうしていたかを、もう少し知りたいと思うのですが、まだ情報を見つけることが出来ていません。


レーラントス戦争はBC 650年頃まで断続的に続き、最終的にはカルキスが勝利しました。しかし、カルキスエレトリアもともに国力を弱める結果になりました。このあとはこの二か国に代わって、エーゲ海東岸ではミーレートスサモスミュティレーネーの町々が、エーゲ海西岸ではアイギーナコリントスの町々が、有力な海洋勢力になっていきました。