神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(9):アテーナイ人入植者

カルキスとエレトリアが交易活動でかつて主役を務めていた証拠のひとつとして、古典期のギリシアで使われていた重さ単位が「エウボイア・タラントン」と呼ばれていたことが挙げられます。重さの単位は価値の単位でもありました。それは、金額を示す時に金の重さで示したからです。実は古典期のギリシアで広く使われていた重さの単位体系はもうひとつあって、それは「アイギーナ・タラントン」と呼ばれていました。その名の通りアイギーナが使い出したもので、アイギーナはレーラントス戦争後、エーゲ海西側における交易拠点として成長してきたために、この単位が広まったのでした。

  • 余談ですが、このタラントンという言葉は最初、重さの単位の意味でしたが、物の価値の単位となり、その後さまざまな言語において「才能」の意味となり、現代の「タレント」の語源となったのでした。 


BC 506年、カルキスはスパルタや(テーバイを中心とする)ボイオティアと同盟してアテーナイを攻めました。もともとこの戦争はスパルタのクレオメネース王が企画したもので、クレオメネースがアテーナイの政局に干渉したことから始まり、その後、クレオメネースのアテーナイへの個人的な恨みも副因となって起きたものです。というのは以前、彼は少数の兵を率いてアテーナイにやって来て、アテーナイの2つの党派の片方の首領であるイサゴラスを政権につけようとしたことがありました。しかしアテーナイ人に包囲されてそれは失敗し、休戦条約を結んでアテーナイから退去したのでした。この時一緒に退去したイサゴラスを再び政権の座につかせるために、クレオメネース王は他の同盟諸国とともにアテーナイに侵攻したのでした。

クレオメネスは、アテナイ人が単に言葉の上ばかりでなくその行為によっても、自分にはなはだしい侮辱を加えたと信じ、ペロポネソス全土から軍勢を集めた。ただその理由は明かさなかったが、彼の本心はアテナイ国民に報復し、イサゴラスを独裁者に立てようとするにあったのである。クレオメネスがアクロポリスを撤退したとき、イサゴラスも彼と行を同じくしたのであった。
 クレオメネスは大軍を率いてエレウシスに侵入したが、ボイオティア人も彼との協定に従い、アッティカの国境の二つの区、オイノエとヒュシアイとを占領した。他方カルキス人もアッティカの各地を攻撃し、これを劫掠した。アテナイはかくて両面からの攻撃にさらされたが、ボイオティア人とカルキス人の対策は後まわしとし、エレウシスにあるペロポネソス軍に対して陣を構えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、74 から

しかし、まずスパルタと一緒に進軍してきたコリントス軍が、この戦争は正しくないと考えて回れ右をして帰国してしまいます。また、スパルタのデマラトス王も(スパルタには王様が常時2人いるのです)同様に考えて引き上げてしまいます。このためスパルタはアテーナイと戦う前に撤退することになってしまったのです。

かくてこの遠征は失敗し不面目な結果に終ったが、ここにおいてアテナイは報復を志し、まずカルキスに進攻しようとした。ところがボイオティア人がカルキスを支援すべく、エウリポス海峡へ進出してきた。


ヘロドトス著「歴史」巻5、77 から

スパルタからの脅威が消えた今、アテーナイはこの機にカルキスに報復することにしました。それを察知したボイオティア軍が例のエウリポス海峡にやってきて、つまりギリシア本土とエウボイア島とをわずか40mで隔てているエウリーポス海峡にやってきて、アテーナイ軍がそこからエウボイア島に上陸するのを防ごうとしたのでした。これに対してアテーナイ軍は、まずボイオティア軍に向ってこれを破り、さらにその日のうちにエウリーポス海峡を渡ってカルキス軍とも戦い、これをも破ってしまいます。

アテナイ軍はこの援軍を見ると、カルキスより先にボイオティア軍を攻撃することに決した。アテナイ軍はボイオティア軍を襲撃して大勝を博し、その多数を殺し、七百人を捕虜にした。同じ日にアテナイ軍は海峡を渡ってエウボイアに侵入、カルキスをも攻撃しこれを破り、「馬持ち(ヒッポボタイ)」たちの領地を四千の開拓民に配分し、この地に定住させたのち引き上げた。「馬持ち」とは、カルキスの富裕な階級の呼称である。


同上

アテーナイは、「馬持ち」と呼ばれるカルキスの富裕階級から土地を奪い、それをアテーナイからの入植者に分配したのでした。これによってカルキスではアテーナイからの入植者が支配権をにぎるアテーナイの属国になってしまったのでした。


アテーナイはその後、この戦争での捕虜を身代金を取って釈放しました。そしてその身代金の1/10を使って青銅製の四頭立戦車を作り、これをアテーナイのアクロポリスにある女神アテーナーの神殿(有名なパルテノン神殿の前身)に奉納したのでした。その戦車には、以下のような銘が刻まれていたと、ヘーロドトスは伝えます。

 アテナイの子ら、いくさの業に
 ボイオティア、カルキスの族を討ちひしぎ、
 黒鉄の枷かけ、いぶせき獄におとして、その驕慢を懲らしぬ。
 ここに戦利の十分の一をパラスの尊に奉り、これなる戦車を献げまつりぬ。


同上

なお、パラスというのは女神アテーナーの別名です。




(女神アテーナー


このアテーナイ人入植者たちの地位はそれほど長く続きませんでした。BC 490年、ペルシア軍がエウボイア島に攻めて来た際に、彼らはカルキスから離れることになったのです。

それにはこのような経緯があったのです。
エレトリアとアテーナイがイオーニアの反乱に加勢したために、ペルシア王ダーレイオスはイオーニアの反乱鎮圧後、エレトリアとアテーナイに懲罰のための軍を派遣しました。そのことを知ったエレトリアはアテーナイに助けを求めました。エレトリアはカルキスのすぐ西にある町です。

エレトリア人はペルシア軍が自国に向って艦隊を進めていることを知ると、アテナイに救援を求めた。アテナイは直接に援助することは拒んだが、その代わりカルキスのヒッポボタイの領地に入植した四千を、援軍としてエレトリアに送ることを承諾した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、100 から

アテーナイは自国の軍を派遣する代わりに、カルキスに入植した4000名をエレトリアに派遣することにしたのでした。このことから、カルキスに入植したアテーナイ人たちは、入植から16年たった時点でもアテーナイ政府の指示に従ったことが分かります。

 しかしエレトリア人のとった方策は決して当を得たものではなかった。彼らはアテナイの救援を要請したが、実のところ国論は二つに割れていたのである。町を見捨ててエウボイアの山地に立籠ろうという一派もあれば、別の一派はペルシア方から私利を得られることを期待し祖国を売る手筈を整えていたのである。当時エレトリアを牛耳っていたノトンの子アイスキネスは、この二派の目論見を知ると、来着したアテナイ人に自国の現状を悉く告げ、エレトリア人と破滅の運命を共にせぬために、母国に引き上げるように要請した。そしてアテナイ人はアイスキネスのこの忠告に従ったのであった。


同上

今まで私はこの記述を読んで何の疑問も持たなかったのですが、今回前野弘志著「ケルソネーソス、ナクソス、エウボイア植民:『エンクテーマタ型植民』の検討」を読んで、自分の読み方が表面的なものであったことに気づきました。上の引用文に「来着したアテナイ人に」とある点が重要なのでした。その前の引用ではアテーナイ政府はカルキスのアテーナイ人入植者エレトリアに派遣したはずですが、ここではエレトリアに来着したのは「アテーナイ人」となっています。前野弘志氏によれば、このアテーナイ人カルキスのアテーナイ人入植者は同一の集団を指しているということです。そしてエレトリアの指導者アイスキネスがそのアテーナイ人たちに「母国に引き上げるように」と忠告したその「母国」とはアテーナイのことなのでした。上の引用につづいて

 こうしてアテナイ人はオロボスに渡り難を避けたのであった・・・


ヘロドトス著「歴史」巻6、101 から

とあり、このオロポスというのは本土側の土地なので、彼らがカルキスに帰るのだったら、こんなところへは来ないはずです。つまり、彼らはアテーナイに帰ったのでした。


さて、このペルシア軍は、エレトリアを占領し住民を捕虜としたあとアテーナイに向うのですが、アテーナイ近郊のマラトーンでアテーナイ軍に敗れ、ペルシアに引き上げます。ペルシア軍が去った後、アテーナイ人入植者たちが再びカルキスに戻って来たかどうかは分かりません。少なくともヘーロドトスはそれについては述べていません。もし戻らなかったとするとカルキスの政治体制はどのようになっていたのか、私は気になります。