神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(1):キオス創建

キオス島は日本で言えば佐渡島ぐらいの大きさで、日本によくあるような、起伏に富んだ島です。

この島は、ホメーロス風讃歌の「アポローンへの讃歌」で「海に浮かぶ島々の中でもひときわ豊饒なキオス」と称えられています。 

イーダーの蔭なす山の峰々、
スキューロス
ポーカイア
アウトカネーの険しい峰、
ひと住むによいインブロス、
靄(もや)たちこめたレームノス
アイオロスの子マカルの座なる神々しきレスボス
海に浮かぶ島々の中でもひときわ豊饒なキオス、


アポローンへの讃歌、岩波文庫 四つのギリシャ神話(「ホメーロス讃歌」)より


(今のキオス)


イオーニアの反乱の最後の決戦になったラデーの海戦の際は、同盟国の中で最大の100隻の軍艦を派遣した有力な海軍国でもありました。また、トゥーキュディデースがペロポネーソス戦争直前のキオスについて

私が見聞する限りでは、ただひとりキオス人は繁栄のさなかにあっても、ラケダイモーン人にも比すべき中庸の政策を持して忘れず、かれらのポリス(=都市国家)が殷賑をきわめると、それに応じてなお一層堅固なる秩序の維持につとめてきた


トゥーキュディデース「戦史 巻8 24」より

と叙述するように、繁栄と秩序の両方を兼ね備えた都市国家でもありました。残念ながら現代のキオスに残っている古代ギリシアの遺跡は少ないようですが、その当時、非常に繁栄した都市でした。まずは、その都市の起源について探っていきたいと思います。


英語版Wikipediaのキオスの項」には、「レロス島のペレキュデース」の説として、島に最初に住んでいたのはレレゲス人(=ほぼカーリア人と同じ)であり、彼らはクレータ島に服属していたが、のちにイオーニア人によって駆逐された、とあります。しかし、そこにはイオーニア人によるキオス創建に関する記述はありませんでした。そこで次に、キオスと通商活動におけるライバルであり、同じ方言を話すエリュトライの伝説の中になにかヒントがあるのではないかと考え、調べてみました。なお、キオスとエリュトライの言語については、次のヘーロドトスの証言を採用しました。

これらのイオニア人の話している言葉は同一のものではなく、四つの方言に分かれている。イオニアの諸都市の内、最も南方の町はミレトスで、つづいてミュウス、プリエネがあり、これらの町はみなカリア地方にあり、お互いに同じ方言を話している。次にリュディアにある町は、エペソス、コロポン、レベドス、テオスクラゾメナイポカイア、これらは前に挙げた町とは言葉は違うが、お互い同士は同じ方言を話している。イオニアの町はそのほかになお三つあり、その内二つは島にあって、すなわちサモスとキオスがそれであるが、もう一つはエリュトライで、これは大陸にある。そしてキオスとエリュトライの住民は同一の方言を話すが、サモス人だけは孤立しており独自の方言を用いている。


ヘロドトス著「歴史」巻1、142 から


(エリュトライの位置)


英語版Wikipediaのエリュトライの項」によれば、エリュトライの最初の住民はクレータ島からの移住者であり、その頃彼らはそこでリュキア人やカーリア人やパンピュリア人と一緒に住んでいた。のちに(イオーニア人の植民活動の一環として)アテーナイ王コドロスの子クノーポスがイオーニア人を率いてやってきた、ということです。ここから考えるにキオスも同じコドロスの子クノーポスによって建設されたのではないか、と想像します。彼に率いられたイオーニア人たちは先住民のレレゲス人を追放してキオス島を占拠したのでしょう。