神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エリュトライ(7):イオーニアの反乱

翌年(BC 545年)、ペルシアの将軍ハルパゴスがイオーニアの町々を攻略し始めました。

ハルパゴスはこの時キュロスから司令官に任命され、イオニアに着任するや、彼は盛り土作戦によって次々に町を攻略していった。つまり相手を城壁内に追いつめておいては、敵の城壁の前に土を盛り上げて攻略したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、162 から

そしてイオーニア諸市は

ハルバゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになった


ヘロドトス著 歴史 巻1、169 から

のでした。リュディアの次にはペルシアがエリュトライを支配するようになりました。


このままおとなしくしていればエリュトライは、ペルシアの支配下でそれなりに繁栄を享受できたのでしたが、BC 499年ミーレートスがペルシアに対して叛乱を起こすと、エリュトライはミーレートスの誘いを受けて、軽率にもこの反乱に加わってしまいます。ミーレートスの僭主アリスタゴラスは、この反乱にミーレートスだけでなくイオーニア全体を巻き込むために、反ペルシアに加えて反僭主・民主化のスローガンを掲げました。自分がペルシアの後ろ盾でミーレートスの僭主になっていたのにかかわらず、アリスタゴラスはミーレートスに民主制を宣言し、さらに、ついさっきまで自分に協力してナクソス遠征に参加した各国の僭主たちを逮捕して、それぞれの国(=町)に引き渡したのでした。この政変にびっくりした各都市の市民たちは、反ペルシア、反僭主で立ち上がり、ミーレートスに軍勢を派遣したのでした。これがイオーニアの反乱です。


イオーニアの反乱は6年続きました。その後半はペルシア側が態勢を立て直したために、イオーニア側が押されてきました。やがて反乱の中心地ミーレートスにペルシアの艦隊が迫る事態になりました。

・・・・ミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。海軍のうち最も戦意盛んであったのはフェニキア人であったが、彼らとともに最近征服されたキュプロスからの派遣軍やキリキア人、さらにはエジプト人も攻撃に加わった。


 ペルシア軍がミレトスをはじめとするイオニア各地に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに集結すべきことを議決した。ラデとはミレトスの町の前面に浮ぶ小島である。

(かつてのラデー島の近くの風景)


やがて船の装備を終えてイオニア軍は集結したが、アイオリス人のうちレスボス島の住民も彼らに加わった。その陣形は次のようであった。東翼はミレトス人自ら八十隻の船を繰り出してこれを占め、これにプリエネ人の十二隻、ミュウス人の三隻がつづき、ミュウス軍の次にはテオス軍十七隻、テオス軍にはキオスの百隻がつづいて布陣した。さらにエリュトライとポカイア軍が、それぞれ八隻および三隻の船をもって陣を構え、ポカイア軍にはレスボス軍の七十隻がつづき、最後にサモス人が六十隻の艦船を擁して西翼を占めた。これら艦船の総数は三百五十三隻であった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から

キオスが軍船100隻を派遣したのに対し、エリュトライの派遣した軍船の数はたった8隻でした。この頃にはエリュトライはキオスに大きく差をつけられていました。以後、エリュトライの動向に目だったところはありませんでした。さて、この海戦は、サモスとレスボスの艦隊が裏切って戦線を離脱したために、イオニア側の惨敗になりました。反乱は鎮圧され、エリュトライは再びペルシアの支配下に組み込まれました。

この時ペルシアの諸将は、ペルシア軍に反抗の陣を構えたイオニア人に向ってかれらが放った威嚇をその言葉どおり実行したのであった。というのは、彼らはイオニア諸市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し男子の性を奪い、また器量のすぐれた娘を親許からひき離して大王の宮廷へ送った。右のほか、さらに各都市に火を放ち聖域もろともに焼き払ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、32 から