神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エリュトライ(6):リュディア王国

その後、小アジアの内陸からリュディア王国が隆盛してきました。このリュディア王国がイオーニアのギリシア人都市を攻略し始めるのですが、ヘーロドトスによれば、リュディアの初代の王ギュゲースは、ミーレートススミュルナに軍を進め、コロポーンを一時的に占領しました。2代目のアルデュスはプリエーネーを占領し、ミーレートスを攻めました。3代目のサデュアッテスはミーレートス攻略を重点的に行ない、この戦争を4代目のアリュアッテスも引き継ぎました。「(4):レーラントス戦争」で引用したヘーロドトスの記述はこの戦争のことです。

(上:リュディアの都サルディスにあったアルテミス神殿の遺跡)

この十一年の内、最初の六年間はアルデュスの子サデュアッテスがリュディアの王位に在り、この期間中ミレトスの地へ軍を進めたのも彼であった。そもそもこの戦争を始めたのがこの人物だったのである。この六年間に続く五年間は、サデュアッテスの子アリュアッテスが戦争を続けたのであるが、これは前にも言ったように、父親からこの戦争を受け継いだわけで、彼は非常な熱意をもってこれに当った。


イオニア諸都市の内、ひとりキオスを除いては、ミレトス人とこの戦争に援助しようとする都市は一つもなかった。キオス人は以前エリュトライアと戦った際、ミレトス人が加勢してくれたことに恩義を感じ、同じような行為によって報恩しようと、彼らを援助したのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、18 から

この記事には「イオニア諸都市の内、ひとりキオスを除いては、ミレトス人とこの戦争に援助しようとする都市は一つもなかった」とあるので、エリュトライはミーレートスを助けなかったわけです。ギリシアの諸都市はリュディアという脅威に対して互いに協力するということが出来ず、常に互いに戦ってばかりいたようです。このためリュディアはますます勢いを増し、アリュアッテスの子クロイソスの代になると、エリュトライはリュディアの支配下におかれてしまいました。

アリュアッテスの死後、その子クロイソスが三十五歳で王位を継いだ。クロイソスが攻撃の戈を向けた最初のギリシア都市はエペソスである。(中略)クロイソスはエペソスに先ず手を染めたのであったが、ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛かりをつけて攻撃した。重大な理由の見付かるときは、それをもち出すのであるが、時にはとるに足らぬ口実を盾にすることもあった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、26 から

こうしてエリュトライはリュディア王国に貢物を捧げなくてはならなくなりましたが、エリュトライのライバルであるキオスはどうだったでしょうか? クロイソスは島に住むギリシア人に対しては攻撃に出ず、友好関係を結んだので、キオスはリュディアに征服されずに済みました。

(上:自分の宝を客人に見せるクロイソス)


その後、リュディアの東にペルシアが興り、メディア王国を滅ぼしてリュディアと境を接するようになると、クロイソスは軍を組織して、ペルシアに攻め込みました。

(ペルシア王)キュロスも自分の軍隊を集め、さらに通過する地域の住民をことごとく引き連れて、クロイソスに立ち向った。キュロスはしかし軍隊を動かす前に、イオニア各地に使者を送り、クロイソスから離反させようとした。しかしイオニア人はそれに従わず、かくてキュロスが到着し、クロイソスに対峙して陣地を構えるにおよんで、両軍はこのプテリアの地区において、力と力の対決をすることになった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、76 から

この時の戦いは勝負がつかず、クロイソスは首都サルディスに撤退して軍を解きました。ところがキューロスはサルディスを急襲して包囲し、14日目にサルディスを陥落させました(BC 546年)。イオーニア諸都市はあわてて使者をキューロスのもとへ送りました。しかし、キューロスは使者たちに対して、彼らがリュディアに背かなかったことを非難しました。

このことはイオニアの町々に報告され、イオニア人はこれを聞くと、それぞれ町のまわりに城壁を築き、ミレトス以外の全イオニアの住民がパンイオニオンに集合した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、141 から

イオーニア人たちが集まったというパンイオーニオン(全イオーニア神殿)というのはイオーニア同盟のための神殿で、同盟全体の問題を議論する際にはここに集まる慣わしになっていたのでした。しかし、事ここに至っても彼らは一致協力する、ということが出来ず、会議は実りのないまま閉会しました。