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非常に断片的な情報なのですが、BC 7世紀かそれ以前にエリュトライがキオスと戦ったという記事があります。これはBC 5世紀の歴史家ヘーロドトスが記述したものです。彼はBC 7世紀の終り頃のリュディア王国によるミーレートス侵略のことを叙述するなかで、この時ミーレートスを助けたのはキオスであり、それはかつてエリュトライとキオスが戦争になった時に、ミーレートスがキオスを助けたことの返礼であった、と書いています。
この十一年の内、最初の六年間はアルデュスの子サデュアッテスがリュディアの王位に在り、この期間中ミレトスの地へ軍を進めたのも彼であった。そもそもこの戦争を始めたのがこの人物だったのである。この六年間に続く五年間は、サデュアッテスの子アリュアッテスが戦争を続けたのであるが、これは前にも言ったように、父親からこの戦争を受け継いだわけで、彼は非常な熱意をもってこれに当った。
イオニア諸都市の内、ひとりキオスを除いては、ミレトス人とこの戦争に援助しようとする都市は一つもなかった。キオス人は以前エリュトライアと戦った際、ミレトス人が加勢してくれたことに恩義を感じ、同じような行為によって報恩しようと、彼らを援助したのである。
ヘロドトス著「歴史」巻1、18 から
エリュトライとキオスと交易活動のことで紛争があったといいます。どちらの国(都市国家)も、貿易が盛んでした。もっともこの頃の貿易というのは、いつでも海賊に変り得るもので、さらに海賊は、他国の傭兵になったりもします。エリュトライの例は知りませんが、エリュトライの北にあるレスボス島の町ミュティレーネーでは、バビロニアで傭兵になった人物がいますし、エリュトライより南のロドス島にある町イアーリュソスでは、エジプトで傭兵になった人物がいます。この頃の貿易というものは平和的なものとは限りませんでした。
このエリュトライとキオスの間の戦争についてもう少し知りたいところです。ある説によると、この戦争はレーラントス戦争の一部だといいます。レーラントス戦争というのは、エウボイア島の2都市、カルキスとエレトリアの間でBC 8世紀終わりから7世紀半ばまで続いた戦争のことです。BC 5世紀の歴史家トゥーキュディデースは、これを大規模な戦争であったと考えていました。
古い昔にカルキス対エレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。
トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、15 から
この戦争が始まった頃、カルキスとエレトリアはギリシア世界で一番栄えていたのですが、この戦争により両者とも国力を使い、衰退してしまいました。逆にこの後、力を持つようになったのはイオーニア地方の諸都市でした。特にミーレートス、サモス、キオスでは海軍力が発展しました。
この戦争について、現代の学者はトゥーキュディデースとは異なり、参加国を少なく見積もっているようです。
他の地域への紛争の拡大と同盟国の数については議論があります。カルキスとエレトリア以外に参加した3つの国への直接的な言及があります。エレトリア側に立ったミーレートスと、カルキス側に立ったサモスとテッサリアです。
他の情報源から知られているアルカイック期ギリシアの国家間の敵対と同盟は、これら以外の関与者のさらなる提案につながり、一部の学者は最大40カ国の参加を提案するようになりました. しかし、そのような数字は広範な政治的同盟システムを暗示しており、それはBC 8世紀にはありそうにないと、大多数の学者が考えています。他の多くの都市が同じ時期に戦争に巻き込まれていたとしても、当時のギリシア諸国間のすべての紛争がこの戦争の一部であったとは言えません。したがって、ほとんどの学者は、上記の都市を除いて、アイギーナ、コリントス、メガラのみが参加し、おそらくキオスとエリュトライも参加したと推測しています。
レーラントス戦争に際して、ミーレートスと、ミーレートスの目と鼻の先にある島サモスは分かれて戦い合いました。ミーレートスがエレトリア側に立ち、サモスがカルキス側に立ったわけです。キオスはエリュトライの目と鼻の先にある島です。そうすると、ミーレートスとサモスの間に起きたのと同じようなことが起きたとしても不思議ではありません。最初に引用したヘーロドトスの記事から、ミーレートスはキオスを援助したことが分かるので、エリュトライはカルキス側に立ったと推測されます。ミーレートスがキオスを援助したのならば、サモスはエリュトライを援助したのでしょうか? そのあたりははっきりしません。
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