神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(4):ホメーロス

もっとも、ホメーロスを自分の町の出身だと主張する町はスミュルナ以外にも多くありました。古代のホメーロスの伝記のひとつには次のように書かれているということです。

さてホメーロスを、ピンダロス Pindaros はキオス Chios の人、スミュルナ Smyrna の人と言い、シモーニデース Simonides はキオスの人、アンティマコス Antimachos とニーカンドロス Nikandros はコロポーン Kolophon の人、哲学者アリストテレースイオス Ios の人、歴史家エフォロス Ephoros はキューメー Kyme の人と言う。またある者は、キュプロス島のサラミース Salamis の人、ある者はアルゴス Argos の人、さらにアリスタルコス Aristarchos とトラーキアのディオニューシオス Dionysios Thrax はアテーナイの人とした。


高津春繁著「ホメーロスの英雄叙事詩」に引用された古代のホメーロス伝のひとつの孫引き


ホメーロス


ではありますが、このブログでは信ぴょう性を脇に置いて、こんな伝承がある、ということをご紹介することを基本姿勢としていますので、ホメーロスをスミュルナに関わる人物として書いていきます。


ホメーロスの生涯についてですが、古代から伝わる伝記がいくつかあるそうです。その中のひとつ「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」

に収録されています。もうひとつ、ヘーロドトスが書いたと主張しているが実は他人が書いたというホメーロス伝、については英語版のWikipediaにそのあらすじが載っていました。この2つをご紹介したいと思います。


まず、「ニセ」ヘーロドトス作のホメーロス伝からいきます。

  • アイオリスの都市キューメーにメラノポスという男がおり、その娘の名はクレーテーイスといいました。クレーテーイスはアルゴスから来た男によって妊娠し、スミュルナの近郊でホメーロスを生みました。私生児だったということです。ホメーロスは最初メレーシゲネースと名付けられました。
  • 長じて彼は教師であるペーミオスとともに船でイタケー島に行き、そこでメントールという人のところに滞在しました。のちにホメーロスはメントールへの感謝の気持ちから、メントールを自作の「オデュッセイアー」の登場人物の中に含めました。イタケー島滞在中に彼は目の病にかかり、イタケーから帰国する旅の途中、イオーニアのコロポーンで失明しました。このことから彼はホメーロスと呼ばれることになりました。その後、彼は生計を立てるために叙事詩を作り始めました。
  • 母方の祖父の町であるキューメーの市民権を得ようとしましたが失敗したので、ホメーロスポーカイアに移住しました。そこでは別の先生であるテストリデースが、彼の詩を書きとめる権利と引き換えに彼に食事と宿泊場所を提供すると提案してきました。ホメーロスはそれを受け入れざるを得ず、テストリデースに「イーリアス」と「オデュッセイアー」を歌って聞かせました。
  • その後テストリデースはキオスに移り、そこでホメーロス叙事詩をあたかも自作の詩のようにみせて朗唱し、有名になりました。ホメーロスはこのうわさを聞いて、自分もキオスに行くことにしました。するとテストリデースはキオスから急いで逃げていきました。キオスホメーロスは家庭教師としての仕事を見つけました。そこで彼は「カエルとネズミの戦い」など、子供向けを想定した叙事詩を創作しました。その後サモスにも旅行しました。アテーナイへの航海中にイオス島ホメーロスはその生涯を終えました。


(上の伝記に登場する地名の位置を示しました。)



次に「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」のあらすじを紹介します。

  • この伝記ではホメーロスがどこで生まれたかとか両親の名前とかについて確定的なことを述べていません。ホメーロスは「マルギーテース」を作詩したのち、吟遊詩人として各地を遍歴していました。あるとき彼は、デルポイまで足をのばして、その神託に自分の素性を尋ねました。デルポイの巫女はこう答えました。「汝の母親はイオス島の生まれである。汝はその島で生涯を閉じるであろう。幼き子供らのかける謎に注意せよ。」そこでホメーロスはイオス島に行くことだけは避けて遍歴を続けました。
  • その頃、エウボイア島のカルキスの王アンピダマースの葬送競技が行われ、それには叙事詩のコンテストも含まれていました(この王はレーラントス戦争で戦死したのでした。レーラントス戦争はBC 8~7世紀の出来事なので、この伝記が正しければホメーロスはこの時代の人ということになります)。ホメーロスはそれに参加しました。偶然にもヘーシオドスもその競技に参加し、ヘーシオドスがホメーロスに勝ったのでした。
  • その後もホメーロスは自作の詩を朗唱しつつ諸国を巡り歩きました。そして「イーリアス」と「オデュッセイアー」を作詩しました。アテーナイに来たときはアテーナイ王メドーンの歓待を受けたといいます(アテーナイ王メドーンは、イオーニア植民が始まる頃(BC 10世紀)の伝説上の王ですので、レーラントス戦争の時代より200~300年ほどさかのぼります。この伝記の矛盾しているところです)。
  • アテーナイを去ってコリントスに行き、詩を口演して大好評を博しました。次にアルゴスを訪れて「イーリアス」の中のアルゴスに関わる箇所を朗唱しました。アルゴスの人々はそれを喜び、彼に高価な贈物をし、さらに青銅の像を建てて彼を称えました。
  • ホメーロスは、アルゴスにしばらく滞在したのち、船でデーロス島に渡り、その地で行わていたアポローン神の大祭の行事に参加しました。そこで彼は「アポローンへの讃歌」を披露しました。すると居合わせたイオーニアの人々はホメーロスを各都市共通の市民とすることを決しました。さらにデーロス人たちは、この讃歌を白板に記して、アルテミスの神域に奉納したのでした。
  • 高齢になったホメーロスイオス島に渡って滞在しました。ある日ホメーロスは海辺に座っていると、子供たちが漁から帰ってくるのに出会いました。彼は子供たちに何が獲れたのか、と尋ねました。すると子供たちは「捕えたものは捨ててしまい、捕えていないものは持っているよ」と答えました。ホメーロスにはその意味が分かりませんでした。これこそが昔デルポイの神託ホメーロスに警告した「幼き子供らのかける謎」なのでした。子供たちにその意味を尋ねると、子供たちは「虱(しらみ)を取っていたが、取った虱は捨ててきたが、取り損ねた虱はまだ身に着いているんだ」と答えたのでした。ホメーロスは、この地で生涯を閉じるという神託を思い出して、みずからの墓に刻む碑銘の詩を作りました。そして、その3日後に死んだということです。


(上の伝記に登場する地名の位置を示しました。)


どちらの伝記もホメーロスが没した場所をイオス島としているところが注目されます。イオス島で没したというのは史実なのかもしれません。

イオス島