神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イオス(1):ホメーロス終焉の地

イオス島の位置を下の地図に示します。

イオス島は、ホメーロスの「イーリアス」にも「オデュッセイアー」にも登場せず、ヘーロドトスの「歴史」にもトゥーキュディデースの「戦史」にも1回も登場しないので、私のような者がイオス島について何か書くというのは無謀な試みだと思っています。それでも私の中で「書け」という声が強いので、何とか書いていこうと思います。


古代のイオス島についての神話・伝説のたぐいで、私が知ることが出来たものは唯一ホメーロスにまつわる伝説だけです。この伝説に関連して、ホメーロスの母親がイオス島の出身である、という伝説もあります。とはいえ、これも確かな言い伝えではなく、ある伝説では彼女は小アジアキューメーの出身ということになっています。



まずはホメーロスについてお話しします。ホメーロスは現存するギリシア最古の文学作品である叙事詩イーリアス」と「オデュッセイアー」の作者だとされている人物です。しかし、ホメーロスという人物が本当に存在したのかということですら、いまだに分かっていません。「イーリアス」と「オデュッセイアー」はギリシアの神話と伝説を物語ったものですが、その作者とされるホメーロス自身も半ば伝説的な存在なのでした。そのホメーロスの終焉の地がイオス島である、という伝説があります。

ある伝説によれば、ホメーロスはある時、自分のルーツ(出自)をデルポイの神託に尋ねた、ということです。

ホメーロスは「マルギーテース」を作詩した後、吟遊詩人(ラプソードス)として各地を遍歴していたが、デルポイまで足をのばして、自分の生国と素性について託宣を乞うたところ、デルポイの巫女は次のように答えたという。

母の生国はイオスの島、なんじみまかる時その身はこの島に引き取らるべし。
さりながら幼き子らのかける謎には心せよ。


岩波文庫の、ヘーシオドス著「仕事と日」の収録された「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」 松平千秋訳 より


この記述では、ホメーロスの母親がイオス島の出身であることと、ホメーロスが最後にはイオス島でこの世を去ることになるという予言が語られています。


この伝説では、ホメーロスがイオス島で亡くなる顛末も語られています。

詩人(=ホメーロスのこと)はイオス島に渡ってクレオーピュロスを訪ね、ここにしばらく滞在したが、この時はすでに高齢に達していた。ある日浜辺に坐り、折りしも漁から帰ってきた子供らに、次のように訊ねたという。

海に狩する男(お)の子らよ、なんぞ獲物はありたるか。

すると子供らは

捕えたるは捨て置きたり、捕えざりしはここに持つ。

と答えたが・・・・


同上

この子供たちの言葉「捕えたるは捨て置きたり、捕えざりしはここに持つ」という言葉が、デルポイの神託が注意するように告げていた「幼き子らのかける謎」だったのでした。

すると子供らは

捕えたるは捨て置きたり、捕えざりしはここに持つ。

と答えたが、ホメーロスにはその言葉の意味が判らず、どういう意味かと子供らに訊ねた。子供らが答えて、漁では獲物が何もなく、虱(しらみ)捕りをしたが、捕った虱はその場に捨ててきたものの、捕れなかった虱は今も着物の中に持っているのだといった。


同上

子供たちの言葉を理解出来なかったホメーロスは、自分の死期を悟ります。

ホメーロスはそこで、自分がこの地で果てるという神託を思い出し、みずからの墓に刻む碑銘の詩を作った。その場を立ち去ろうとする時、そこの土に足をとられて横倒しにころび、三日目に世を去ったという。遺骸はイオスに葬られたが、その銘詩は次のとおりである。

ここに大地の蔽えるは聖なる頭(こうべ)
世に優れたる武夫(もののふ)の功(いさお)称えし詩聖ホメーロス


同上


現在イオス島には、ホメーロスの墓と呼ばれる遺跡があります。しかし、本当にホメーロスの墓であるのかは、確実ではありません。




(左:ホメーロスの墓と呼ばれる遺跡)