神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(5):スミュルナの市壁

英語版Wikipedia「Fortifications of ancient Smyrna。古代スミルナの要塞」によると、スミュルナはBC 9世紀から頑丈な壁に囲まれていました。これはこの時代では比較的まれなことだったそうです。そのように頑丈な市壁(城壁というべきでしょうか?)に守られたスミュルナだったのですが、ある時に他国の者たちに占領されてしまいました。それは、このようなことがあったからです。

内乱を起して敗れ祖国を追われたコロポン人の一隊を、アイオリス人が受け入れてやったことがあった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から

この頃のギリシア都市の多くでは王権が弱体化し、その代わりに複数の貴族の家々が政権を求めてさかんに抗争を繰り返していました。その過程で、抗争に敗れた側が亡命することも多かったようです(その一例を「ミュティレーネー(10):アルカイオス」に書きました)。コロポーンからの亡命者たちにも同じような事情があったと想像します。コロポーンはイオーニア人の植民市で、スミュルナの南側に位置していました。

(アイオリス人の町は赤で、イオーニア人の町は紫で示しました。)

ところがその後このコロポンの亡命者たちは、スミュルナの市民が城壁の外でディオニュソスの祭を行なっているところを見すまして門を閉め、町を占領してしまったのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から

おそらく、アイオリス人とイオーニア人とでは祭の時期が異なっていたのでしょう。それで、スミュルナのアイオリス人たちが城壁の外でディオニューソス神(酒の神)を祭を行うにあたって、コロポーン人たちを城壁の中に残していったのだと思います。そこを見計らってコロポーン人たちがスミュルナ人たちを閉め出してしまったわけです。当然、スミュルナの人々は町を奪還しようとしますが、城壁が堅固で進入出来ません。そこで、彼らは他のアイオリス人の町々に助けを求めたので、それらの町々は救援の兵を出しました。しかしやはり町を奪還することは出来ませんでした。

アイオリス人は全力をあげてその救援に駆け付けたが、結局協定が成立し、イオーニア側は家財一切を引き渡す代りに、アイオリス人はスミュルナを退去することになった。スミュルナ人が協定に従ったので、アイオリスの十一市は分担して彼らを収容し、それぞれの町で市民権を与えたのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、150 から


英語版Wikipediaの「スミュルナ」の項目によれば、この出来事はBC 688年に起きたそうです。こうしてスミュルナはアイオリス人の町からイオーニア人の町になったのです。


その後しばらくして、東のリュディア王国からの軍勢がスミュルナ目指して、押し寄せてきました。この時のリュディア王はメルムナス家の初代の王ギュゲースでした。

さて、このギュゲスも、王位に即いてから、ミレトスとスミュルナに軍を進め、コロポンの市街を占領するということがあったが、彼の在位三十八年の間、それ以外には大した事蹟もないので、彼については以上の記述にとどめたいと思う。


ヘロドトス著 歴史 巻1、14 から

しかし、ギュゲースのスミュルナ攻撃は失敗します。リュディア軍はヘルモス川のほとりで敗北を喫し、引き上げたのでした。