神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

イオス(2):クリテーイス

前回ご紹介したホメーロスに関する伝説は、今に伝わる形になったのはAD 2世紀と推定されていますが、元になった記事はBC 4世紀までさかのぼるらしいです。さて、この伝説の中で、ホメーロスに与えられたデルポイの神託は、ホメーロスの母親についてイオス島の出身である、と告げていました。

母の生国はイオスの島、なんじみまかる時その身はこの島に引き取らるべし。
さりながら幼き子らのかける謎には心せよ。


岩波文庫の、ヘーシオドス著「仕事と日」の収録された「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」 松平千秋訳 より

ホメーロスの母親の名前はクリテーイスという名前だったという説が多いようですが、ほかにもメーティス、テミステー、ヒュルネートー。カリオペー、ポリュカステーの名が挙げられています。その中でクリテーイスの名を採る説の中に、クリテーイスがイオス島の出身である、という説があります。その説は以下のように述べています。

偽プルータルコスは、物語の異なるバージョンをアリストテレースに帰しています。クリテーイスはイオス島の少女で、ムーサたちと踊っていた地元の神々の1人によって妊娠しました。彼女は自分の状態を恥じて、(イオス島の)アイギーナと呼ばれる場所に隠れました。そこで彼女は上陸したスミュルナの海賊に連れて行かれ奴隷にされました。海賊たちは、彼女をリュディア人の王メオーンに与え、彼女の美しさに魅了された彼は、彼女と結婚しました。やはり(他の説と同じように)、子供は(スミュルナの)メレース川のほとりで生まれましたが、クリテーイスは出産直後に亡くなり、メオーンは幼い息子の世話をしました。彼は死ぬまでそうしましたが、それはそう長くはありませんでした。


英語版Wikipediaの「クリテーイス」の項より

この説はかの大哲学者アリストテレースが唱えたものと主張されていますが、そう主張しているのは、後世あやまってプルータルコスの著作とされてしまった未知の人物なのです。なかなかに曖昧模糊とした話です。これに関係すると思われる別の記事もご紹介します。

さてホメーロスを、ピンダロス Pindaros はキオス Chios の人、スミュルナ Smyrna の人と言い、シモーニデース Simonides はキオスの人、アンティマコス Antimachos とニーカンドロス Nikandros はコロポーン Kolophon の人、哲学者アリストテレースはイオス Ios の人、歴史家エフォロス Ephoros はキューメー Kyme の人と言う。またある者は、キュプロス島のサラミース Salamis の人、ある者はアルゴス Argos の人、さらにアリスタルコス Aristarchos とトラーキアのディオニューシオス Dionysios Thrax はアテーナイの人とした。


高津春繁著「ホメーロスの英雄叙事詩」に引用された古代のホメーロス伝のひとつの孫引き

アリストテレースホメーロスイオスの人としている、というところが気になります。


他の説では、クリテーイスは小アジアのアイオリス地方のギリシア人都市キューメーの出身となっています。この説の出どころはキューメー出身の歴史家エポロスのようです。クリテーイスがどこの出身であったとしても、ホメーロスを「(キューメーの近くにある)スミュルナのメレース川のほとりで産んだ」というところは共通しているようです。この話は「スミュルナ(3):アイオリス人の到来」でご紹介しました。


ホメーロスの母親がイオス島の出身で、ホメーロス自身もイオス島で生涯を終えたという伝説に、私は「そこから人間がやってきて、やがてはそこに帰っていくところの地母神」の片りんを感じます。そしてその地母神がイオス島で崇拝されていたのではないか、と空想しています。そしてその空想をもっと広げようとするのですが、高津春繁氏の「ギリシアローマ神話辞典」を調べてもイオスの名前が登場するのはこのクリテーイスの伝説のみなので、手掛かりがありません。地母神の心当たりとしては、イオスがキュクラデス諸島の中に位置するので、このあたりの聖なる島であるデーロス島で崇拝されているアポローンとアルテミスの2柱の神を産んだ母神レートーはどうだろうか、などと空想しています。