1:ミーレートスの起源
ミーレートスは小アジアのエーゲ海沿岸にかつてあった古代ギリシア人の町です。ミーレートスのあった、小アジアのエーゲ海沿岸中部の地方はかつてイオーニア地方と呼ばれていました。そこにある諸都市のなかでミーレートスはイオーニアの華と呼ばれて、繁栄しておりました。ミーレートスは、AD 2世紀のギリシアの著作家パウサニアースの「ギリシア案内記」によれば、クレータ人のミーレートスという名前の人物にちなんでミーレートスと名付けられたということです。ミーレートス人自身が・・・・
2:イオーニア人
トロイア戦争後の時代は混乱の時代でした。この混乱の時代にギリシア人の一派であるイオーニア人がミーレートスにやって来て、町を占領することになるのですが、このイオーニア人はかつてはギリシア本土のペロポネーソス半島の北側に住んでいました。ギリシアの伝説ではトロイア戦争が終わって80年目に、ヘーラクレースの後裔を称する人々に率いられたドーリス人が北からペロポネーソス半島に侵入して、そこに住んでいたアカイア人を追い出したことになっています(上図の赤矢印)。このアカイア人というのは・・・・
3:ミーレートス建設
コドロス王の死後、アテーナイでは後継者争いが始まります。コドロスの息子の年長の息子たち、メドーンとネイレウスが支配権について争い、ネイレウスはメドーンが片足で不自由だったため、彼に支配されることを拒否した。争う者たちはこの問題をデルポイの神託に委ねることに同意し、ピューティアーの巫女はアテーナイ王国をメドーンに与えました。そこで、ネイレウスとコドロスの残りの息子たちは、彼らと一緒に行きたいと思っているアテーナイ人を連れて植民地を設立しようとしましたが、彼らの一団の多くはイオーニア人で構成されていました。・・・・
4:レーラントス戦争
ミーレートスはBC 8世紀にレーラントス戦争に巻き込まれた都市のひとつでした。このレーラントス戦争というのは、ギリシア史の初期のことなのではっきりしたことはよく分からないようです。レラントス戦争(レラントスせんそう、英:Lelantine War)は、・・・・
5:キンメリア人の侵入
リュディア王国が領土を拡張してきてミーレートスを占領しようと、さかんに戦争を仕掛けるのですが、その時にミーレートスがどう対処したのかについて、その初期のことは分かりません。これらはいわゆる暗黒時代の出来事なのです。いっとき、リュディアがミーレートスや他のイオーニア・・・・
6:科学の祖タレース
さて、次の出来事は、キンメリア人やスキュタイ人をリュディア王国の領土から放逐したあとの出来事なのか、それともまだ放逐出来ていなかった頃の出来事なのかよく分からないのですが、リュディアの首都サルディスに保護を求めてきたスキュタイ人の処遇をめぐって、リュディアとメディアが戦うという出来事がありました。
7:僭主トラシュブロス
キンメリア人とスキュタイ人がリュディアから追い出されたのち、リュディア王国はミレトスへの侵攻を再開しました。この時のミーレートスの支配者はトラシュブロスでした。彼がミレトスに軍を進め、これを攻囲した遣り方は次のようであった。田畑に穀物が実る・・・・
8:イオーニア12都市
ミーレートスはリュディアと同盟を結んだおかげで、他のイオーニア都市とは異なり、独立を保つことが出来ました。リュディア王が次の代のクロイソスになった時、クロイソスはいろいろと口実を設けて他のイオーニア都市を征服してしまいましたが、その時もミーレートスには手をつけることはありませんでした。
9:トラシュブロス後
さてこの頃、ミーレートスの独裁者トラシュブロスはどうしていたのでしょうか? 残念ながらそれについての記述を私は見つけることが出来ていません。彼には後継者がいたのか、それとも後継者はおらず、民主政が確立したのか、それとも貴族政になったのか、興味があ・・・・
10:タレースと鼎
ディオゲネス・ラエルティオスはタレースにまつわるこんな話を記しています。イオニアのある若者たちがミレトスの漁夫たちから、彼らの水揚げした漁獲物を買ったとき、引き上げられたもののなかに鼎があったので、それをめぐって争いが起った。そこでミレトスの人たちは最後にデルポイへ伺いを立てたところ・・・・
11:ディデュマ
ディデュマというのは、ミーレートスの領内にあって神託で有名なアポローンの神殿でした。ディデュマのアポローンの神殿の遺跡 ヘーロドトスはディデュマについて「きわめて古い創設にかかる神託所(歴史、巻1、157)」と述べています。とても気になる・・・・
12:サルディスの陥落
話を「ミーレートス(7):イオーニア12都市」のところまで戻します。ミーレートスはリュディアと同盟を結んでいたことで対外的には平和を得ていたのですが、やがて情勢が変化していきます。その変化は東方はるかかなたのイラン高原からやってきました。
13:リュディア人パクテュエスとディデュマ
サルディスの陥落の直後の話です。リュディアの首都サルディスには豊富な量の黄金がありました。デルポイやこのディデュマに奉納した黄金の量からも、リュディアが黄金に富む国であったことが分かります。ペルシア王キューロスは、その黄金をペルシアの首都・・・・
14:イオーニア文化の拡散
サルディスの陥落があり、その後のペルシア王国によるイオーニア地方平定において2つの町の住民だけが祖国を離れました。テオースの町では全市民が船に乗り込み、海路トラーキア(現在のギリシア北東部)に向い、そこにアブデラという町を建てました。ヘーロ・・・・
15:ヒスティアイオスの登場
「ミーレートス(8):トラシュブロス後」で述べましたように、ミーレートスは2世代(おそらく60年)に渡る内紛の後にパロス島の住民によって一種の財産政(財産の多い者が政権を握る政治制度)が成立したのではないか、というのが私の推測でした。しかし、・・・・
16:ドナウ河の船橋
ここからしばらくは話の舞台はエーゲ海を離れて黒海の沿岸近く、ドナウ河の水が黒海に注ぎ込むあたりを少し上流に行ったあたりになります。当時、このドナウ河の北側がスキュタイ人の領土なのでした。ペルシア王ダーレイオスは陸軍を率いて、ボスポラス海峡に船橋を・・・・
17:ダーレイオスの退却
スキュタイ人の言う通り、橋を破壊してイオーニアを解放しようと主張したのはケルソネーソスの僭主ミルティアデースでした。ケルソネーソスは今のガリポリです。一方、それに反対したのはミーレートスの僭主ヒスティアイオスでした。自分たちがそれぞれ自国の独裁権・・・・
18:「イオーニアの華」の時期
ミーレートスの支配権を得ており、さらに今回ミュルキノスに町を建設する許可をもらったヒスティアイオスは喜んでミュルキノスの城壁の建設を始めました。ところがそのことを聞いたペルシアの将軍メガバゾスがダーレイオス王にこう進言しました。「王よ、とても・・・・
19:イオーニアの反乱のきっかけ
当時、ミーレートスは繁栄を謳歌しておりましたが、ナクソスという島も他の島々にぬきんでて繁栄しておりました。ナクソスはエーゲ海に浮かぶ島々の中でキクラデス諸島と呼ばれる諸島の中の最大の島です。ミーレートスはペルシアの支配下にありましたが、ナクソスは・・・・
20:サルディスへ
アリスタゴラスはペルシアへの反乱の意志を自分の仲間たちに打ち明けました。また彼は、ヒスティアイオスから来た指令についても明かしました。その仲間の中には歴史家ヘカタイオスもいたということです。他の者たちが皆、反乱に賛成する中でヘカタイオスだけは・・・・
21:サルディスとエペソスでの戦い
何の抵抗も受けずにサルディスを占領したイオーニア軍とアテーナイ軍でしたが、兵隊の一人が一軒の家に火を附けたところ、火は忽ち家から家へ移り、町全体が猛火に包まれてしまった。町の燃えている中に、リュディア人および町にいたペルシア人はことごとく・・・・
22:アリスタゴラスの逃亡
ヒスティアイオスが歩いて3ヶ月はかかるスーサからサルディスへの長い道のりを進んでいっているうちにも、イオーニアでの情勢も変化していきました。サルディスとエペソスでの戦いの次には、キュプロスでペルシアへの反乱が起りました。反乱軍の首謀者はキュプロス・・・・
23:ペルシア軍の包囲
ヒスティアイオスがキオス島に渡ると、ダーレイオスの覚えめでたい人物がキオスに来たというわけで、これは何か陰謀を企んで来たに違いないとキオス人に勘ぐられ、逮捕されました。ヒスティアイオスは自分はダーレイオスから逃げてきたのだ、と必死に説明してなんとか・・・・
24:ミーレートスの陥落
さて、ペルシア海軍の主力であるフェニキア艦隊がイオーニア軍に接近し、戦いの火蓋が切られました。ヘーロドトスは、どの町の部隊が奮戦し、どの町の部隊が戦わずに逃走したのかを述べていますが、肝心のミーレートス部隊がどう戦ったのかについては、なぜか述べていません。・・・・
25:ミーレートス陥落ののち
サルディスから逃走してからのヒスティアイオスの行動は、その目的が私には理解出来ません。逃亡したことによってペルシアに敵対することを決意したと思ったのですが、やったことといえばビューザンティオン(今のイスタンブール)を根拠地にして、海賊家業にいそしん・・・・
26:ペルシア戦争
イオーニアの反乱は、歴史上有名なペルシア戦争への導火線でした。ペルシア王ダーレイオスは、イオーニアの反乱にギリシアのアテーナイとエレトリアが加担したことを口実に、ギリシア本土に攻め込むことを決意しました。「ミーレートス(22):ミーレートス陥落ののち」・・・・
27(最終回):復興
ミーレートスの町は、ペルシアの支配を脱した年、BC479年から都市改造を始めます。それによって出現したのは右の地図が示すような碁盤の目状に道が走る、日本で言えば平安京のような構造の町です。このような碁盤の目状の都市プランをヨーロッパの都市計画関係で・・・・