神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(23):ペルシア軍の包囲

ヒスティアイオスがキオス島に渡ると、ダーレイオスの覚えめでたい人物がキオスに来たというわけで、これは何か陰謀を企んで来たに違いないとキオス人に勘ぐられ、逮捕されました。ヒスティアイオスは自分はダーレイオスから逃げてきたのだ、と必死に説明してなんとか釈放してもらいました。ヒスティアイオスはキオスからサルディスに向けて、自分の反乱計画に関与している何人かのペルシア人に宛てて手紙を出しました。しかしこの手紙がサルディス総督アルタプレネスの手に渡ったために、はかりごとは露見し、それらのペルシア人が処刑されてしまいました。それから彼はミーレートスに帰国しようとしたのですが、アリスタゴラスが逃亡して民主制になったミーレートスでは、僭主がやってくるのを拒否するようになっておりました。そもそもこの混乱は僭主たちが引き起こしたものではないか、というわけです。そこを無理に帰国したのですが、彼はミーレートス人のある者の手にかかって腿に傷を負うはめになり、しかたなくキオスに撤退したのでした。
ヒスティアイオスは今のイオーニアの指導者たちの下で対ペルシア戦争を戦う気はさらさらなく、戦争を自分が主導したいと考えていました。そこでキオス人から艦隊を借りようとしましたが、キオスはこれを拒否しました。そこで、レスボス島のミュティレーネーに渡り、レスボス人の協力者を得て艦隊を編成し、ビューザンティオン(今のイスタンブール)に航行してそこを根拠地にし、ここで海賊まがいのことをして、黒海から出てくる船を片っ端から捕獲したのでした。
そうこうしているうちに、ペルシアの陸軍と艦隊が同時にミーレートス目指して近づいてきました。

ヒスティアイオスとミュティレネ人が右のような行動に出ている間に、肝心のミレトスには海陸からの大軍が迫っていた。ペルシア軍の諸将が合流して共同戦線を張り、ミレトス以外の諸都市は二の次にして、ひたすらミレトスに向って進撃していたのである。(中略)
ペルシア軍がミレトス(中略)に進撃してくることを知ったイオニア人たちは、それぞれ代表団を全イオニア会議へ派遣した。代表団が目的地へ着き協議した結果、ペルシア軍に対抗するための陸軍は編成せず、ミレトス人は自力で城壁を防衛すること、艦隊は一船もあまさず装備をほどこし、装備の終り次第ミレトス防衛の海戦を試みるため早急にラデに終結すべきことを議決した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、6~7 から


上の引用で「全イオニア会議」というのは「ミーレートス(11):サルディスの陥落」に登場したパンイオーニオン神殿で開催される会議のことです。また、「ラデ」というのはミーレートスの沖にある島のことですが、今では長年の堆積により内陸になっています。
さて、このように議決して各イオーニア都市は軍船を派遣しましたが、ラデー島に集結した各都市の軍船の数は以下のとおりでした。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Model_of_a_greek_trireme.jpg

  計    353隻

ところでレスボス島だけはイオーニアではなくアイオリスでした。彼らはイオーニア人でないにも関わらず、ペルシアの脅威を感じてイオーニアの反乱に参加したのでした。レスボス島にはこの頃主要な都市としてミュティレーネーメーテュムナがありましたが、上の70隻を出したのがどちらの町なのか分かりません。

対するペルシア艦隊は

  • ペルシア 600隻

でした。
イオーニア海軍と対峙したペルシア艦隊には、追放されたイオーニアの各都市の元僭主たちが乗船しておりました。このとき彼らはペルシア艦隊の指揮官から以下のように指示を受けました。

イオニア人諸君、今こそ諸君各自がペルシア王家に対する諸君の忠誠心を表わす時である。諸君はおのおの自国民を連合軍から離脱させるよう計らってもらいたい。その際確約事項として、われらは決して反乱の罪を問うて処罰を加えることはせぬし、聖所や個人の住居を焼くこともない、またこれまで以上に虐待することもしないと通告せられたい。しかし、もし彼らがこれに従わずあくまで戦争に訴えようとするならば、必ずや彼らにふりかかるべき災厄の数々を挙げて威嚇してやられるがよい。すなわち、敗戦の暁には彼らは奴隷となり、男児は去勢され、女児はバクトリアへ移される。またその国土は没収して他民族に与えられる、ということじゃ。」
 ペルシアの司令官たちの右の言葉に応じて、イオニアの独裁者たちはこの趣旨を伝える使者を夜のうちにおのおのの母国へ送った。しかしこれらの通報を受けたイオニア各市では、(中略)裏切りに踏み切ろうとしなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、9~10 から

イオーニア艦隊の主導権を握ったのはポーカイアの司令官ディオニュシオスでした。彼は情勢を冷静に判断し、イオーニア艦隊に海戦の訓練を積ませることが必須であると判断しました。そこで彼はペルシア艦隊が包囲している中で、海戦の訓練を、なかでも船間突破戦法の訓練を指導しましたが、それは厳しい訓練でした。最初の7日間はイオーニア人もディオニュシオスの指示に従っていたのですが、8日目からは訓練が厳しすぎると不平を述べて、彼の指示に従わなくなりました。サモス派遣部隊の指揮官たちはこのありさまを見て、上に述べたペルシア側の提案を受け入れて戦線を離脱することを決意したのでした。