神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(22):アリスタゴラスの逃亡

ヒスティアイオスが歩いて3ヶ月はかかるスーサからサルディスへの長い道のりを進んでいっているうちにも、イオーニアでの情勢も変化していきました。サルディスとエペソスでの戦いの次には、キュプロスでペルシアへの反乱が起りました。反乱軍の首謀者はキュプロスにあるサラミースという町(ギリシア本土のアテーナイの近くにもサラミース島がありますが、これとは別)の王オネシロスでした。オネシロスは、反乱に反対する町アマトゥスを包囲して攻撃しておりました。そこへペルシアの大軍が海路来攻し、やがてキュプロスに上陸するであろう、という報告がとどいたのです。これを聞いたオネシロスは、イオーニアの各市に使者を送り、彼らの援助を求めたので、イオーニア人は大艦隊を派遣してオネシロスを援助することに決しました。イオーニア軍がキュプロスに到着すると、一方ペルシア軍もキリキアから海路渡来し上陸を終え、サラミース目指して進撃を開始しておりました。さらにまた、ペルシア支配下フェニキア人の艦隊もキュプロスに近づいてきておりました。

 ペルシア軍がサラミース平野に到着した時、キュプロスの諸王は、サラミースとソロイの最精鋭をすぐってペルシア軍主力に当らせ、残りのキュプロス軍をその他の敵軍に向わせました。ペルシア軍の指揮官アルテュビオスには、反乱の指導者オネシロスが自ら進んで立ち向かったのでした。一方、海戦はイオーニア軍に任されました。一旦海戦の火蓋が切られるとイオーニア軍の働きは目覚しく、フェニキア軍を撃破しましたが、中でもサモス派遣軍は一番の武功を樹てました。一方、陸上では、キュプロス、ペルシアの両軍が激突し、互いに襲いかかって戦いました。しかしここでクリオンという町の軍隊がペルシア側に寝返ってしまったのです。クリオン部隊の裏切りの後、すぐにまたサラミースの戦車部隊が、それにならい、これらの裏切りのためペルシア軍はキュプロス軍を制して優位に立つに至りました。キュプロスの陣営は敗走し、多くの戦死者を出しましたが、キュプロス離反の張本人であったサラミース王オネシロスその人もその中の一人でした。
イオーニア軍はキュプロスの海戦の後、オネシロスの計画が破れたのを見極めると、すぐにイオーニアへ帰航してしまいました。


その後カーリアでの戦闘でミーレートス軍は大損害を受け、本格的に反攻に出てきたペルシア軍によってギリシアの町々は順番に占領されていきました。アリスタゴラスは自分の計画が破綻しつつあるのを認識しました。すると彼は逃亡を計画し始めてしまうのです。

この間ミレトスのアリスタゴラスが毅然たる気性をもった人物でないことが明らかになった。この男はイオニアの騒擾と紛乱の種を蒔いた張本人でありながら、右の情勢を眺めて逃亡を画策していたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、125 から


彼は、ペルシア王ダーレイオスが一旦はヒスティアイオスに与えた町である、トラーキアのミュルキノスに逃げることにしました。そしてミーレートスの統治は市民の中で名望のあったピュータゴラース(有名な哲学者、数学者とは別人)に委ね、同行を希望する者たちとともにミュルキノスに移住したのでした。しかし、まもなく彼はトラーキアの原住民との間の戦争でトラーキア人に討たれて死んでしまいました。アリスタゴラスが死んだからといってもイオーニアとペルシアの戦争は解決せず、イオーニア人は一旦反乱を起したからにはペルシアが独立を許すかあるいは自分たちが占領されるかまで戦わざるを得ない状況でした。


一方、スーサからサルディスに着いたヒスティアイオスのほうはと言いますと、そこには以前の戦争でサルディスのアクロポリスに立て篭もって戦ったサルディス総督のアルタプレネスがいました。彼のところには情報が集まっていて、今回の反乱はヒスティアイオスが策動したものらしい、ということが分かっていました。

サルディスの総督アルタプレネスは彼に、イオニア人の反乱の原因は何であると思うかと訊ねた。ヒスティアイオスは、自分には判らぬといい、イオニアの現況についてなにも知らぬ自分には、この事件は誠に意外千万であると答えた。しかし反乱の真相についてすでに詳細を知悉していたアルタプレネスは、ヒスティアイオスがしらを切るのを見てこういった。
「ヒスティアイオスよ、事の真相はこうじゃよ。この靴はそなたが縫い上げて、それをアリスタゴラスが穿(は)いたまでのことじゃ。」


ヘロドトス著「歴史」巻6、1 から

この言葉を聞くとヒスティアイオスは陰謀が露見したことを感じ取り、その日が暮れるとともにサルディスから海岸へ向って逃亡しました。目指すはエーゲ海に浮かぶ島、大陸からすぐのところにあるキオス島です。