神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(3):ミーレートス建設

コドロス王の死後、アテーナイでは後継者争いが始まります。

コドロスの息子の年長の息子たち、メドーンとネイレウスが支配権について争い、ネイレウスはメドーンが片足で不自由だったため、彼に支配されることを拒否した。争う者たちはこの問題をデルポイの神託に委ねることに同意し、ピューティアーの巫女はアテーナイ王国をメドーンに与えました。そこで、ネイレウスとコドロスの残りの息子たちは、彼らと一緒に行きたいと思っているアテーナイ人を連れて植民地を設立しようとしましたが、彼らの一団の多くはイオーニア人で構成されていました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・2・1 より

つまり、アテーナイに避難していたイオーニア人の多くが、王位争いに負けたネイレウスと共に、小アジアへ植民市を建設するための遠征に参加したのでした。この遠征にはイオーニア人だけでなく、様々な部族が参加したということです。

イオーニア人の遠征に参加した人々は、ギリシア人の間で次のとおりでした。ペーネレオースの子孫であるピロータスの下の若干のテーバイ人、オルコメノスのミニュアイ人で、彼らはコドロスの息子たちと関係があったからです。
 デルポイ人を除くすべてのポーキス人と、エウボイア島のアバンテス族も参加しました。 航海のための船は、アテーナイ人でエウクテモーンの息子たちであるピロゲネースとダモーンによってポーキス人に与えられ、彼ら自身が植民団を率いていました。


パウサニアース「ギリシア案内記」7・2・3~4 より

この植民団は、ネイレウスの他に、その兄弟たちも参加していて、それぞれが頭目として人々を率いていたようです。彼らが小アジアに到着したあと、たちまち植民団は分裂してしまいました。その中で、ネイレウス頭目とする集団はミーレートスを攻略しました。コドロスの他の息子たちは、それぞれ別の町を攻撃しました。


この植民は平和的なものではなく、原住民のカーリア人を殺戮し追放して建設した血なまぐさいものでした。ヘーロドトスは以下のように記しています。

このイオニア人の内に、アテナイの市会堂(プリュタネイオン)から移住の第一歩を踏み出し、イオニア人中最も高貴な血統を誇る一団があるが、彼らは移住の際女を連れてゆかなかったので、彼らの手によって両親を失ったカリアの女を妻としたのであった。この殺戮のためにこれらの女たちは、決して夫と食事を共にせず、夫の名を呼ばぬという掟を自分たちで作って、それを守る誓いを互いに交し、その掟は娘にも伝えたのである。現在の夫が自分たちの父や夫や子供を殺し、そうしておきながら自分たちを妻にしたという恨みからである。これはミレトスで実際に行われていたことである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、146 から 


このあとネイレウスがミーレートス市の王になったのか、その後、その子孫が王位を継いだのか、については情報が得られていません。この頃は考古学的には暗黒時代と呼ばれていて、この時代のことはよく分かっていないのです。ヘーロドトスが伝える以下の女神デーメーテールの神殿の建立の説話は断片的な情報ではありますが、この時代の数少ない情報だと思いますので、ご紹介します。

尊女神(ポトニアイ)の神殿を過ぎてミュカレ領内のガイソンおよびスコロポエイスに達すると――ここにはその昔パシクレスの子ピリストスが、コドロスの子ネイレオスに随行してミレトス市の建設に向った折、建立したエレウシスのデメテルの社がある。


ヘロドトス著 歴史 巻9、97 から

エレウシスというのはアテーナイのすぐ西にある町で、そこは2女神デーメーテールとペルセポネーの聖地でした。そこでは古代で有名な「エレウシスの密儀」という秘密の宗教儀式が、あるいは宗教的で神聖な劇が、行われていました。そのエレウシスのデーメーテールの分社のようなものがミーレートス建設時にミーレートスの近くに建立された、という伝えです。

(上:エレウシスの密儀の様子を描いた絵)

次はこの伝えから時代は数百年跳びます。