神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(27.最終回):復興

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ミーレートスの町は、ペルシアの支配を脱した年、BC479年から都市改造を始めます。それによって出現したのは右の地図が示すような碁盤の目状に道が走る、日本で言えば平安京のような構造の町です。このような碁盤の目状の都市プランをヨーロッパの都市計画関係ではヒッポダモスのプラン(Hippodamian plan)というそうです。ここに登場するヒッポダモスヨーロッパの都市計画の父と呼ばれるミーレートス人です。ならばこのミーレートスの都市計画は彼が立案したのだと思うのですが、肝心のそこのところがはっきりしません。ただ、その後彼がこのような都市計画を提唱し、多くの町の構造に影響を与えたのは史実のようです。英語版のWikipediaによりますとヒッポダモスの生年はBC498年となっています。そうするとミーレートスの都市改造が始まったBC479年にはまだ19歳ですので、都市計画を提唱して世に受入れられるには若過ぎるような気がします。一方、日本語版のウィキペディアでは「生没年不明」としています。あるいはもっと早く生まれていたのかもしれません。ただ、もっと早く生まれていたとすると、一方では彼がBC408年に、エーゲ海に浮かぶロドス島の主邑ロドスの都市計画に関わったという伝承があるので、ではその時に何歳だったかを考えるとBC498年生まれだとしても90歳という高齢なので、これ以上生年をさかのぼらせられない、という事情もあります。
ヒッポダモスには政治理論家としての面もあり、彼の理論によれば理想的都市の市民(ここでは成人男性のみ)の数は1万人で、それは兵士、職人、農民の3部分からなり、また国土も、聖地、公有地、私有地の3つからなる、としました。アリストテレースはヒッポダモスより約100年後の人ですが、その「政治学」の中で彼の理想国家の理論を紹介し、その良否を検討しています。また、ヒッポダモスがアテーナイの外港であるペイライエウスの都市計画に従事したことをアリストテレースは書き留めています。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Pergamon_Museum_Berlin_2007077.jpg
英語版のWikipediaの「ミーレートス」の項によりますと「この都市の格子状配置は有名になり、ローマ時代の都市の基本的配置となった」ということです。


400年あまりのちにはミーレートス自身がローマ帝国内の都市となりました。それまでに、ミーレートスはさまざまな国の支配を受けました。すなわち、再びペルシア領に戻り、その後アレクサンドロスの帝国の一部になり、その後継者たち、マケドニアセレウコス朝シリアやプトレマイオス朝エジプトの支配を受けたのち、ローマ領になりました。今日見ることが出来るミーレートスの遺跡はローマ帝国時代のものが多いようです。(上はペルガモン博物館に展示されているミーレートスの復元模型)

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ミーレートスの遺跡にあるギリシア式の劇場もローマ帝国時代に改築されているようです。

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このミーレートスの市場の門は、現在、ベルリンのペルガモン博物館にありますが、元々はミーレートスの南のアゴラ(市場)の北門として建っていたものです。作られたのは紀元2世紀で、おそらくはAD120年から130年の間、ローマ皇帝ハドリアヌスの治世下の時です。大理石で出来ていて、高さ約16m、幅約30m、奥行き約5mという大きなものです。10~11世紀の間に地震によって破壊され、断片になっていたのを1903年にドイツの考古学者が発掘し、ベルリンに輸送して、1925~1929年の間に復元したものだそうです。


ローマ帝国時代のミーレートスの姿を垣間見たところで、ミーレートスの物語を終えたいと思います。お読み下さりありがとうございます。