神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(16):ドナウ河の船橋

ここからしばらくは話の舞台はエーゲ海を離れて黒海の沿岸近く、ドナウ河の水が黒海に注ぎ込むあたりを少し上流に行ったあたりになります。当時、このドナウ河の北側がスキュタイ人の領土なのでした。ペルシア王ダーレイオスは陸軍を率いて、ボスポラス海峡船橋をかけさせ、その橋を渡ってヨーロッパ側に出ました。一方、イオーニア人部隊には船で黒海沿岸を北へ進み、先にドナウ河口に到着し、その近くの渡河に適した地点に船橋をかけつつ、自分の到着を待つように命じました。当時、ギリシア人はドナウ河のことをイストロス河と呼んでいました。以降、ここでもイストロス河の名前を使って記述を進めます。

さて、ダーレイオスとその麾下の陸上部隊がイストロス河畔に到着し、全軍が渡河を完了したのをダーレイオスが見届けると、ダーレイオスはイオーニア人部隊に60日間この橋を守るように命令しました。これはスキュティアを征服したあとの帰路を確保するためでした。

ダレイオスは一本の革紐に60個の結び目を作り、イオニアの独裁者たちと会見していうには、
イオニア人諸君、(中略)この紐を手許において、これからわしのいうとおりにしてもらいたい。そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば、その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。しかし(中略)それまでは橋の保全と警備に全力を尽し、船橋を守ってもらいたい。そうしてくれれば、わしとしては何より有難いのだ。」
ダレイオスはこのようにいうと、急いで先に進軍していった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、98 から

さて、侵入してきたペルシア軍に対するスキュタイ人の戦いですが、肝心のスキュタイ軍の主力はこれみよがしにペルシア軍の前から撤退するばかりで会戦に応じません。彼らは遊牧民なのでした。スキュタイ人はペルシア軍より常に1日の行程だけ離れた場所に野営し、井戸や泉を埋め、地上に生えているものをことごとく根絶やしにしていきました。これは焦土戦術でした。そのためにダーレイオスは窮地に陥りました。このようなことがいつまでも続くので、ダーレイオスは騎兵の一人をスキュティア王イダンテュルソスの許に遣わして
「もしそなたがわが軍勢に対抗できる自信があるのならば、逃げ廻るのはやめ踏み留まって戦うがよい。またもしわが軍に力及ばぬことを認めるならば、そのときもまた逃亡をやめ、そなたの主君であるわしに降伏の使者を出すがよいぞ。」
と伝言させました。これに対してスキュティア王イダンテュルソスが答えるには
「ペルシア王よ、わしはいまだかつて、いかなる者を相手にしようとこれを恐れて逃げた覚えはない。わしが今していることは、平生していることと格別変わってはおらぬのじゃ。そもそもわが国には占領されて困るような町も果樹園もないので戦う必要さえないのじゃ。そなたがわしの主君だとぬかしたことに対しては吠え面かくなと言っておこう。」
と答えました。
 一方、スキュタイ人の一分団はイストロス河の橋を守っているイオーニア人のところへ行って、こう告げました。

イオニア人諸君、そなたらがもし当方のいうところに耳をかす気になりさえすれば、われらはそなたらに自由を与えに来たことになるのだ。ダレイオスはそなたらに60日の間だけ橋の警備につき、この期間中に彼が戻ってこねば帰国してよい、という指令を与えたとわれらは承知している。そこでいま、そなたらがこれから申すようになされるならば、ダレイオスからも咎めを受けることなく、われらからも罪を問われずにすむであろう。すなわち約束の日数だけ待った上、引き上げられるがよい。」


ヘロドトス著「歴史」巻4、133 から

イオーニア人たちがそのとおりにしようと約束したので、このスキュタイ人たちは急いでまた引き返していきました。そうこうするうちに、ダーレイオスの方でもこの橋のことが気になりだしました。王の側近であるゴブリュアスが「イオニア人どもが何かわれらの破滅になりうるようなことを決断する以前に、引き上げるのが良策かと存じます。」と建言したからです。そこでダーレイオスは撤退を決心し、イストロス河の橋に向いました。そのことを察知したスキュティア軍は先回りして橋のところに来ました。彼らのほうが地理に明るいのでペルシア軍よりはるかに早く到着出来たのです。来てみると橋は無事で、イオーニア人部隊はまだそこで警備をしていました。そこでスキュタイ人たちはこう述べました。

イオニア人諸君、そなたらに定められた日数は過ぎたのに、まだここに留まっているのは不当であるが、これまではペルシア人を恐れて留まったのであるからよいことにして、今は一刻も早く橋を破壊した上、自由の身であることを喜び、神々とスキュタイ人の恩を忘れぬようにして立ち去るがよい。これまでそなたらの主君であった者は、われわれが屈服せしめて、今後はいかなる国にも兵を進めるようなことのないようにしてやろう。」


ヘロドトス著「歴史」巻4、136 から

このスキュタイ人の提案に応じるかどうか、イオーニアの僭主たちの間で議論が始まりました。