神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(26):ペルシア戦争

イオーニアの反乱は、歴史上有名なペルシア戦争への導火線でした。ペルシア王ダーレイオスは、イオーニアの反乱にギリシアのアテーナイとエレトリアが加担したことを口実に、ギリシア本土に攻め込むことを決意しました。「ミーレートス(25):ミーレートス陥落ののち」の最後に登場したペルシアの若き将軍マルドニオスはアテーナイとエレトリアに陸海軍を率いていく途中で船の難破と通過する地方の住民の反撃に会い、目的を達することが出来ず解任されます。新たに任命された将軍は2人、一人はサルディス総督アルタプレネスの息子で同名のアルタプレネス、もう一人はメディア人の将軍ダティスでした。この2人に率いられた陸軍海軍のうち、海軍のほうにはイオーニア人部隊が含まれていることをヘーロドトスは記していますが、その中にミーレートス人部隊があったのかどうかは書かれていません。私の想像では、この時ミーレートスは「市民が一掃された」というほどではなくても相当の数の上流階級の人々が強制移住させられていたために、ペルシア軍の一翼を担うことなど出来る状態ではなかったと思います。
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のちに第一次ペルシア戦争と呼ばれるこの時のペルシア軍の侵攻はアテーナイ近くのマラトーンの平野での戦いでアテーナイ軍を中心とするギリシア軍によって撃退され、海軍の出番がないままペルシア軍はペルシア本土に撤退しました。BC490年のことです。ダーレイオス王はその雪辱を晴らすために再度の侵攻を準備していたのですが、準備中に死去し、息子のクセルクセースが王位を継ぎました。

クセルクセースは父王のうらみを晴らすために1回目の時より大規模な軍勢を編成し、王自らが出陣するという体制で、2回目のギリシア本土侵攻を実行に移しました(BC480年)。しかし、またしてもアテーナイの、そして今度は海軍のために、アテーナイに近い島サラミースの近くで行われた海戦で敗北を喫します。この時にもイオーニア人の海軍がペルシア側にいたことをヘーロドトスが記していますが、そこにミーレートスからの海軍が参加していたのかどうか分かりません。あるいは、サラミースに来る途中までは参加していたけれども、サラミースの海戦ではミーレートスの裏切りを恐れて参加させなかった、ということかもしれません。というのはこのサラミースの海戦の少し前、アルテミシオンというところでペルシア、ギリシアの両海軍が戦った末にギリシア側が撤退したあと、ペルシア側が水の補給のためにギリシアの沿岸部に上陸すると、そこの岸壁にギリシアの文字でこう書かれているのをペルシア兵が発見したからでした。

イオニア人諸君、父祖の地に兵を進め、ギリシアを服属せしめんとするそなたらの行動は正しくない。そなたらにとって最善の道はわが方の味方となることである。それができぬというのならば、今からでもわれわれとの戦いには加わらぬようにし、カリア人にもそなたらと同様の行動をするように頼んでもらいたい。もしまた、敵の束縛があまりに強く離反ままならず、右のいずれの行動もとり得ぬのなら、そなたらの血統はわれわれの分れであること、またわれらの夷狄(いてき)に対する敵対関係も、元はといえばそなたらが因を成していることを心に留め、合戦の折にはことさら臆した行為に出てもらいたい。


ヘロドトス著「歴史」巻8、22 から

この文言を見て一番胸にこたえるのはミーレートス人のはずでした。「そなたらの血統はわれわれの分れであること」という文言はミーレートスがアテーナイからの植民によって建設されたという言い伝えをミーレートス人の胸に思い起こさせます。「またわれらの夷狄(いてき)に対する敵対関係も、元はといえばそなたらが因を成していること」というのもまさにミーレートスがイオーニアの反乱を引き起こしたことを指摘しているように思わせます。岸壁に刻まれたこの文章の存在はすぐにペルシア王クセルクセースの耳に入ったことでしょう。それを聞いたクセルクセース王が、イオーニア人部隊は信用できない、特にミーレートス人部隊は信用できない、と考えたとしても不思議ではありません。実は、この文言はアテーナイの智将テミストクレースがまさにそのような効果を狙って兵士に岩に刻ませた文章なのでした。私が思うには、このためにたぶん、ミーレートス人の海軍はサラミースの海戦に参加させてもらえなかったのだろうと思います。
BC480年のサラミースの海戦は見事なギリシア側の作戦勝利で、この詳細はいろいろな本で述べられています。しかし、ミーレートスにはあまり関係ないのでここでは述べません。サラミースの海戦の惨敗に慌てふためいたクセルクセース王は早々にギリシア本土をあとにしてペルシアに撤退します。彼はペルシアの将軍マルドニオス(第一次ペルシア戦争の前に、ギリシア本土侵攻に失敗したマルドニオス)にあとを託します。ギリシア北部のテッサリアで冬を越したマルドニオスとその軍隊は翌BC479年、南下してアテーナイを再度目指しました。両方の陸軍はプラタイアで戦いに突入し、スパルタの将軍パウサニアースの指揮により、またしてもギリシア軍は勝利を得ます。この同じ日にギリシア連合の海軍は、小アジアまで進出し、ミーレートスの近くミュカレーで上陸してペルシア陸軍を破りました。この時の司令官はスパルタ王レオーテュキデースでした。この戦いでミーレートス軍はペルシア軍の配下にあったのですが、ペルシアの将軍はミーレートス軍の裏切りを恐れてミーレートス人たちにミュカレー山頂に通ずる道の警備を命じました。

ミレトス人がそのあたりの地理に通じているというのがその口実であったが、実は彼らを本陣から離しておきたかったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻9、99 から

さて戦いがペルシア側の敗北に終り、ペルシア兵たちがミュカレー山頂に逃げようと集まってきた時に、このミーレートス人部隊は

彼らは命ぜられていたこととは全くうらはらの行動に出て、逃走するペルシア軍を予定した道とは別の、敵(ギリシア側)部隊の方へ通ずる道に案内し、最後には彼ら自身がペルシア軍にとっては最も苛酷な敵となってペルシア兵を殺戮したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻9、104 から

こうしてミーレートスを含むイオーニアはペルシアの支配から脱しました。