神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(25):ミーレートス陥落ののち

サルディスから逃走してからのヒスティアイオスの行動は、その目的が私には理解出来ません。逃亡したことによってペルシアに敵対することを決意したと思ったのですが、やったことといえばビューザンティオン(今のイスタンブール)を根拠地にして、海賊家業にいそしんだのでした。そしてその犠牲になったのは多くはギリシアの船でした。その後、ミーレートスの陥落の報を聞いたとたん始めたのは、ラデーの海戦で善戦したがために大損害を受けて弱っていたキオス島をあろうことか占領することでした。どうもこの人はギリシア人とばかり戦っているのです。

キオスを平定すると次にはタソス島を攻めました。タソスの住民はギリシア人で、またペルシアには服属しておらず、ここを攻める大義名分はまったくありません。タソスには金鉱があるのであるいはそれを手に入れて軍資金にしようとしたのかもしれません。この人にはギリシアもペルシアもなく、自分の勢力を拡大することしか考えていないように見えます。
さて、タソスを攻撃中のヒスティアイオスの許へ、フェニキア軍がミーレートスを出航し、イオーニアの他の諸市の攻撃に発進したという情報が届きました。すると今度はヒスティアイオスはタソスを捨てて全軍を率いてレスボス島に急行しました。彼の軍勢の多くがレスボス人だったので、レスボスをペルシアから守ろうとしたのかもしれません。ところがレスボスに到着した彼の軍隊は糧食が不足していました。レスボス島から徴発するだけでは足りず、対岸の大陸側にも穀物の徴発のために渡海しました。


ところがそこには、当時たまたまペルシア軍の大将ハルバコスが軍を率いて駐屯しておりました。彼の軍隊はヒスティアイオスが上陸したところを襲って戦いになりました。戦いは互角で長時間続いたのですがついにヒスティアイオス側が敗走を始めました。逃走中のヒスティアイオスは、もし捕えられてもダーレイオス王の面前に出れば、何とか弁解出来るだろうと思い、ペルシアの一兵士に追いつかれ、あわや槍に刺し抜かれようとした際にペルシア語で「自分はミーレートスのヒスティアイオスじゃ」と話して殺されるのを免れたのでした。

サルディス総督アルタプレネスも、ヒスティアイオスがダーレイオスを言いくるめてしまうだろうと予想していました。彼が罪を許されて再びダーレイオス王の側近として権勢を振るうことになればペルシア王国と王家にとって一大事とアルタプレネスは考え、ヒスティアイオスがサルディスに護送されると、すぐさま彼を殺して、その首だけを塩漬けにしてスーサにいるダーレイオス王の許に送ったのでした。ダーレイオス王はヒスティアイオスが謀反を企てたことを信じておらず、彼の首を鄭重に葬るように命じました。こうして、この迷惑な男ヒスティアイオスは最期をとげました。


なお、この頃、ミーレートス人ヘカタイオスがイオーニア諸都市の大使の一人としてアルタプレネスに会い「イオーニア諸都市の国体の復活を説得した」ということがシケリアのディオドロスの本に書かれている、ということがウィキペディアの「ミーレートスのヘカタイオス」の項に出ていました。「ミーレートス(19):サルディスへ」で述べたようにヘカタイオスは歴史家で、アリスタゴラスがペルシアに反旗を翻そうとした時にその無謀さを指摘して止めようとした人でした。さて「国体」という近年は使われない単語が出てきていますが、どういう意味で使っているのでしょうか。どうもこの日本語版はウィキペディアの英語版を訳したようで、そちらを見てみると対応する箇所には「he persuaded to restore the constitution of the Ionic cities.」と書かれています。「国体」の元の言葉は「constitution」だったわけですが、どう訳しましょうか? 「憲法」と訳すと、たぶんこの頃に憲法という概念はなかったと思うので「政治体制」と訳すことにしました。すると、上の引用は「イオーニア諸都市の政治体制の復活を説得した」ということになるのですが、どのような政治体制のことを言っているのでしょうか? イオーニアの反乱の時にアリスタゴラスによって各都市の僭主たちが追放されたので、その僭主たちの復帰を願ったのでしょうか? そうだとしたらミーレートスの場合はもう僭主たちは死んでいるのでどうすることを願ったのでしょうか? よく分からない記事です。
この記事にある「イオーニア諸都市の大使の一人としてアルタプレネスに会」ったというのはひょっとするとヘーロドトスが述べる以下の出来事を指すのかもしれません。

サルディスの総督アルタプレネスはイオニア各市から使節を招致し、彼らは今後相互間の紛争を裁定によって解決し、決して互いに略奪行為に訴えることはしないという協定を各都市の間で結ぶことを強要したのである。右の協定を否応なく結ばせるとアルタプレネスは次に各都市の領土を(中略)測量し、それによって各市に貢税を課した。(中略)なおアルタプレネスの課税の率は、それ以前とほぼ同じであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、42 から

ヘーロドトスはこの出来事をミーレートスの陥落の翌年としています。それにしても、反乱前と税率が変わらなかったとは、随分寛大な処置だと思います。さて、その翌年になるのですが、ペルシアの若き将軍マルドニオスは、ダーレイオス王の命を受け、イオーニアの反乱に加担したアテーナイとエレトリアを攻撃するために、海陸の大軍を率いて今のトルコ南部から出発し、エーゲ海東岸を北上しておりました。そしてマルドニオスはがイオーニアに着いた時に彼は、イオーニアの僭主をことごとく排除して、各都市に民主制を敷かせた、という記事がヘーロドトスにあります。思わぬことにペルシアによってイオーニアは民主制を与えられたのでした。省みれば、何のための反乱だったのか分かりません。