神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(6):ペルシア軍の包囲攻撃

カリュストスのグラウコスが活躍した時代は、ペルシア王国がエーゲ海東岸まで領土を拡大した時代でした。そしてエーゲ海東岸にあったギリシア人都市はペルシアの支配を受けました(BC 545年)。そのことはグラウコスも耳にしたことだと思います。しかし、そのペルシアがやがてカリュストスを襲うことになるとまでは、当時は思わなかったことでしょう。


しかしその後ペルシア王国はゆっくりとですが着実に領土を西に拡げてきました。BC 499年エーゲ海東岸のイオーニア系およびアイオリス系ギリシア人諸都市がペルシアに反乱する「イオーニアの反乱」が発生します。この反乱を起こしたのはミーレートスという都市でした。カリュストスの北にある都市エレトリアは、以前レーラントス戦争の時にミーレートスエレトリアを助けたことに恩義を感じて、この反乱に援軍を派遣しました。また、アテーナイも援軍を派遣しました。しかし、反乱は最終的にペルシアによって鎮圧されます。ペルシア王ダーレイオスはこれを口実にBC 490年にエレトリアとアテーナイを攻める軍を派遣しました。ペルシア軍はサモス島から島伝いにエレトリアに向っていきました。運悪くカリュストスは、その道筋に当っていました。「(2)極北人からの捧げもの」でご紹介した、捧げものがデーロス島に向かう経路を逆にたどってペルシア艦隊は進軍してきたのでした。

ペルシア軍はデロスを去って後、次々に島に接岸してそこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした。ペルシア軍は島々を廻っている間にカリュストスへも寄った。カリュストス人は彼らに人質も渡さず、また近隣の町――というのはエレトリアアテナイを指したものであったが――の攻撃に参加することも肯んじなかったからで、ペルシア軍はカリュストスの町を包囲攻撃しその国土を荒したため、遂にカリュストス人もペルシア軍の意に服することとなった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、99 から

カリュストスは別にそれまでペルシアに危害を加えたわけでもないのに、人質を出さなかった、そしてペルシア軍に協力するのを拒否した、という理由だけでペルシア軍に包囲攻撃されてしまったのでした。カリュストスは降伏し、その意に反して人質を提供し、ペルシア軍と一緒にエレトリアを攻撃することになりました。


次にペルシア軍はエレトリアを攻撃し、エレトリアもまた降伏しました。ペルシア王ダーレイオスから、エレトリア人を奴隷として引き連れて来るように、と命ぜられていたペルシア軍は、エレトリア人の中の主だった人々を拘束して、近くの島に監禁しました。カリュストスの人々もこの攻撃に参加したことでしょう。


次にペルシア軍が攻めたのはアテーナイです。しかしアテーナイは奇跡的にペルシア軍を撃退しました。ペルシア軍はエレトリアからの捕虜を連行してペルシアに戻っていきました。

このようにしてアテナイ軍は敵船七隻を捕獲したが、ペルシア軍は残りの船の向きを変えて沖に逃れ、エレトリアの捕虜を先に残してきた島から収容すると、スニオン岬を廻って船を進めた。(中略)ペルシア艦隊はパレロン沖に姿を現わし――当時はパレロンがアテナイの外港であった――、ここに投錨したが、やがてアジアへ引き上げていった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、116 から

カリュストスからペルシア軍に従軍した人々や人質として取られた人々はどうなったのでしょうか? ヘーロドトスはそれについては述べていません。エレトリアの捕虜たちはペルシアに連行されました。もしかするとカリュストスからの人質もエレトリア人の捕虜と一緒にペルシアに連行されたかもしれません。あるいは、故国に戻ることを許されたのかもしれません。

エレトリアの捕虜については、(ペルシア軍の司令官)ダティスとアルタプレネスがアジアへ上陸すると、これを(ペルシアの首都)スサへ連行した。ダレイオス王はこれらのエレトリア人が捕虜になる以前は、エレトリア人がペルシア側の挑発もなしにペルシアに害を及ぼしたという理由で、彼らに激しい怒りを抱いていたが、彼らが自分の許へ引かれてきて自分によって死命を制せられている姿を見ると、もはや害を加えることはせず、キッシア地方にあるアルデリッカという王直轄の領地に彼らを住まわせた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、119 から

エレトリア人の捕虜たちは、故国から遠く離れたペルシアの内陸部に住まわされたのでした。