神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カリュストス(8):サラミースの海戦


夜の内に、ペルシア側の船隊は、ギリシア連合軍が集結しているサラミース港を包囲するように東から西へと延びる長い船列を敷きました。そして兵士たちは、港のギリシア艦隊を睨んだまま一睡もせず、夜明けを待ちました。カリュストスの船がこの船列のどこに位置していたかは、ヘーロドトスの記述からは分かりません。ただ、イオーニア部隊が東側に待機し、フェニキア部隊が西側に待機していたとのことですから、一般にイオーニア系と見なされていたカリュストス人の船はイオーニア部隊の近くに配置されていたのではないか、と想像します。夜明け前にカリュストスの船の近くにいたと思われるテーノス島からの船が一隻、ペルシア側から脱走してサラミース港のギリシア側に加わりました。しかし、脱走したのはその一隻だけで、ペルシア側の残りのギリシア人の船はそのまま留まりました。カリュストスの船も留まりました。


やがて夜が明けます。サラミース港を包囲されたことに気づいたギリシア連合軍側は、もはや逃げ場がないことを悟りました。それがかえって彼らの団結力を高めました。一方、ペルシア王クセルクセースは勝利を確信していて、戦場となる海域を見渡すことが出来る小高い所に玉座を据えて、ここから督戦することにしていました。


サラミースの海戦が始まりました。

サラミスのペルシア軍艦船の大部分はアテナイ軍とアイギナ軍のために破壊され航行不能の状態に陥った。ギリシア軍が整然と戦列もみださず戦ったのに反し、ペルシア軍はすでに戦列もみだれ何一つ計画的に行動することができぬ状態であったから、この戦いの結果は、当然起るべくして起ったのである。ただしこの日のペルシ軍の働きは天晴れで実力以上の力を示したというべく、エウボイア沖の海戦(=アルテミシオンの海戦)当時と比較にならぬものがあった。ペルシア軍の将兵はいずれも大王の目が自分に注がれているものと思い、大王を恐れるあまり大いに戦意を燃やしたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、86 から

この海戦は、奇跡的にギリシア連合軍側の勝利に終わりました。ペルシア王クセルクセースは敗戦を悟ると、ギリシア軍によって自分たちがヨーロッパ側に閉じ込められることを恐れ、その日の夜のうちに退却したのでした。そして45日間退却に退却を重ねてようやく小アジア側にたどり着いたのでした。


クセルクセース王に逃げられたカリュストスは困った立場になりました。次の日、ペルシアの艦隊が退却したことに気づいたギリシア側はエウボイア島のすぐ南のアンドロス島までペルシア艦隊を求めて進出しました。しかしどこにもペルシア艦隊の姿は見えませんでした。そこでギリシア側は、アンドロス島がペルシア側に船を出していたことから、アンドロス島の首都を包囲し、賠償金を取り立てようとしました。その包囲戦のさ中にアテーナイの司令官テミストクレースは、他の司令官たちには内緒で、カリュストスなどペルシアに加担した町々に使者を送って、攻撃されなくなければ金を出せ、と伝えました。

テミストクレスは(中略)他の島々へも威嚇的な申し入れをし、金銭を要求した。もしこちらの要求するものを与えねば、ギリシア軍をさし向け、包囲して占領すると伝えさせたのである。テミストクレスはこのような言辞を弄して、カリュストス人やパロス人らから多額の金を集めたのであるが、これらの住民はアンドロスがペルシア側に加担したために攻囲をうけたこと、またテミストクレスが指揮官中で最も令名の高い人物であることなどを聞き、恐れをなして右の金を送付してきたのであった。それ以外にも島嶼民で金を払ったものがあったかどうかは私もそれを知らない。しかし私の思うには、右のものだけでなく他にも金を払った若干の島嶼民があったのであろう。


ヘロドトス著「歴史」巻8、112 から

カリュストスの町はしかたなくテミストクレースに大金を支払いました。それにも関わらず、カリュストスはギリシア連合軍の攻撃を受けてしまいました。そのわけは、アンドロス島が徹底抗戦したからでした。そのため、ギリシア連合軍はアンドロス島から賠償金を取るのを諦め、その代わりにその矛先をカリュストスに向けたのでした。テミストクレースはというと、カリュストスから受け取った金を着服したまま、知らぬ顔を通していました。

さてギリシア軍はアンドロスを攻略することができず、今度はカリュストスに向いその土地を荒した後サラミスへ引き上げた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、121 から

カリュストスにとっては踏んだり蹴ったりでした。